ハイリゲンシュタットの遺書

ハイリゲンシュタットの遺書とは、かの有名なクラシック音楽のマエストロ(巨匠)ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、1802年に家族に綴った手紙を指します。
 
主に体調の不良(難聴)、人間関係への絶望、それらのどん底を味わったベートーヴェンの、苦痛を表す文面。難聴は、彼にとって単なる疾患に留まらない。音楽家として致命的な病状であるが故に、絶望感は計り知れないほど大きかったはず。そのような状況で、光を見出す一行があります。
 
「そのような死から私を引き止めたのはただ芸術」
 
私たちの知っているベートーヴェンの名曲は、ほとんどがこの「ハイリゲンシュタットの遺書」以後に創られたと言っても言い過ぎではありません。「傑作の森」と呼ばれる黄金期は、死のふちより蘇った不屈の魂が生んだ傑作の宝庫です。その後も様々な病に悩まされるベートーヴェンですが、1827年3月にその生涯を閉じるまで、作曲に懸ける意欲は衰えませんでした。
 
私も今年で48歳。56歳で生涯を終えたベートーヴェンの晩年にあたります。彼が私に教えてくれること、それは今携わる仕事を天職と認識し、持てるすべてを捧げなさい。それが「生きる」ということなのだ。
 
「ハイリゲンシュタットの遺書」は決して「死にたい…」というネガティブな意思表示ではなく、それでも生き抜くという強い生命力、創作意欲を私たちに伝えてくれるのではないか。と、私は思う。

The Leaf of Bad Boys

悪ガキたちの葉っぱ。

2018年の夏、念願だったイギリス旅行が実現しました。ビートルズの聖地「リバプールとロンドン」を巡る6泊8日の旅です。自分のためのお土産というか‥記念品のつもりで制作したのが「The Leaf of Bad Boys」の立体作品。落ち葉を数日間かけて押し葉にし、アクリル絵の具などで背景を描いた。ネットでハガキ大ほどのサイズの立体額を購入し、お部屋に飾れるような作品に仕上げました。
 

The Leaf of Bad Boys
The Leaf of Bad Boys

A1明朝体と戯れる。

A1明朝体とは。

モリサワの明朝体フォントです。ファクトのブログの投稿記事は、すべてこのA1明朝体で文字組みされています。本文以外のナビゲーション等はリュウミンR-KLを使用しています。A1明朝体の最大の特徴は、フォントフェイス(一文字の形)が美しいことです。文学や古い広告の味わいを感じます。もっと癖のあるオールド書体もあるでしょうが、私はこのモリサワのA1明朝体が大好きです。

ひらがなが特に美しい。

線が交わる部分が微妙に丸くボケているのも大きな特徴です。仮名は小ぶりで少し太めでボリューム感が出ます。ですので本文に使用する場合は、少し抵抗を感じることもあるでしょう。字間・行間は言うまでもなく、大きなタイトルに使用する場合には、その文言までを吟味したいフォントです。

欧文はCentury Old。

20代後半の東京での修行時代に、事務所の先輩たちからいろいろ教えてもらったことが、今でも自分のデザインの基礎として息づいています。

The Century Old has very beautiful font faces. センチュリー・オールド・スタイルは、タイムズ・ニュー・ロマンやガラモンドと肩を並べる、代表的なローマンフォントだと思います。

人間関係はハイアングルから眺める。

若い頃は考えを述べるたびに、極論主義者だと評されてきました。考えが早々に結論にいたることが多く、このような印象を持たれたのでしょう。ところが、50歳を少し前にした頃から少しずつ考えが変わり、人間性が穏やかになってきました。
 
それは「逆の立場で物事を考える」ようになったから。
 
例えば相手を一人称として人間関係を客観視するようにします。これが意外と難しい。人は自分を主人公にして物語を展開したいものです。具体的には自分も含めた人間関係を、俯瞰視(ふかんし:ハイアングルから眺めたような視点)するような感覚です。
 
そういう感覚で暮らしていますと「怒り」「憎しみ」「嫌い」などの激しいネガティブ感情が消えてゆきました。それらが「怒られている」「憎まれている」「嫌われている」に変換できるからです。

苦悩の音楽家ブラームス

ブラームスは、特にシンフォニーの分野で最も好きな作曲家です。
 
彼の発表した交響曲第一番~四番はどれも傑作で、何度聞いても飽きることはありません。その中でも交響曲第一番は、随所にベートーヴェンの影響を感じさせますが、着手から完成までに20年の歳月を費やしたと言われます。
 
ブラームスの生き様を知ると、自分との共通点を多く見いだすことができます。仕事に厳しく、人付き合いには弱い(本当は自分もこのタイプ)。上手に演奏できない者には「君に必要なのは才能だ」と罵倒しその後「これくらいのことで挫けていては、君の全てが台無しになってしまう」と励ます優しさも備えていたといいます。
 
 

「プラトンの饗宴」Vol.4

プラトンの饗宴[その4]
 
普段、私たちが目にし、拘っているものとは、人が作り出した小さなルールに基づいている。本当の美に気づいている人など、ほとんど居ないのです。ひとつの方向だけを見て、縛られて生きています。そこから一歩外に出たところに、イデアは存在します。
 
二千年以上前に、このような哲学を説いた先輩がいるのに、なぜ、今の私たちは、その教えを活かせないのでしょう?なお「プラトンの饗宴」に関する記事は、書きかけです。今後考えが深まったらまた追記します。
 

「プラトンの饗宴」Vol.3

プラトンの饗宴[その3]
 
愛を成長させることが大切です。
 
まず肉体の美を愛すること。ひとつの肉体にとらわれず、多数の美を知り、愛しなさい。
次に魂の美を愛すること。美とは見た目だけではなく、心や、行いの美しさを愛しなさい。
さらに様々な知識の美しさを愛しなさい。全部にまたがるような大きな美しさを感じなさい。
そして最後に「美そのもの」に出会うことができる。永遠・不変・絶対の美=美のイデアを知ることができる。それは究極の本質「理想」を求めることに通じる。
普段、私たちが目にし、拘っているものとは、人が作り出した小さなルールに基づいている。本当の美に気づいている人など、ほとんど居ないのです。ひとつの方向だけを見て、縛られて生きています。そこから一歩外に出たところに、イデアは存在します。
 
二千年以上前に、このような哲学を説いた先輩がいるのに、なぜ、今の私たちは、その教えを活かせないのでしょう?

「プラトンの饗宴」Vol.2

プラトンの饗宴[その2]
 
◎哲学「philosophy」とは、知恵を愛すること。
◎賞賛や利益を得る目的からは、本当の愛は産まれない。
◎人は「自分が持っていないものを持っている人」に惹かれる。
◎すべての人は魂をもって、何かを産み出すことができる。
◎愛するとは、誰かと、何かを産み出すことだ。
◎生きることは、何かを産み出し続けることだ。
◎人は無知から知恵(智慧)に向かって生きている。
◎「智慧」とは物事をありのままに把握し、真理を見極めること。
 
人が生まれて死ぬまでを人生と呼びます。人はその人生を、何のために生きるのでしょう。人はなぜ、学び努力するのでしょう。人はみな死を恐れ、不死を望むのでしょうか。
 
簡単に書き出したプラトンの教え。これを何回も読み返すうちに、きっかけを掴めると思いました。

「プラトンの饗宴」Vol.1

プラトンの饗宴[その1]
 
2400年前古代ギリシアの哲学者プラトンにり書かれた「饗宴」は、人間とは何か?生きるとはどういうことかを教えてくれます。人生は、考えても…考えても分からない。それでも、考える続けることが大切だと思います。
 
私がブログに書くことは、私なりに理解したことであって、万人に通じるものではありません。残された人生を有意義に過ごすために、私は考え続けることにしました。すごくややこしくて、難しい感じもするでしょうが、それが…ちょっと違います〜。このようなことを、ぼんやりと頭に描いて生きるだけなのです。人生に深く悩まないために、考えているのです(笑)

中庸という考え。

「中庸(ちゅうよう)」の意味を辞書で調べたら、かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。などと出ます。仏教用語での「中道」も近い感覚です。
 
この「中庸」は僕が2011年あたりから身体の痛みを感じ、鍼灸治療院に通っていた頃に針灸師の藤田先生(パーソナルF)より教えて頂き知りました。僕があまりに仕事に厳しく、常に最良の結果が残せるよう葛藤している様を見て、教えてくださった考えです。
 
「中庸は徳の至れるものなり」
 …なにごとをするにも、やりすぎてはいけない。

 
怠けることを許さず、失敗を恐れ、常に自分を追い込んで、良い結果を出すことに邁進する。ずっとそんな生き方をしてきました。それくらいしないと、自分が満足する仕事を残せない…と自らを虐めてきました。しかし、それには上限がないのです。(完璧主義とは少し異なります。あえて文字にすると最善主義。)
 
今の僕は、仕事における完成度を求める観点とは別に、この「中庸」の心を持つことを意識しています。精進し、努力してなお、出した結果においては一喜一憂はしないことです。
 
また、好きなことをしている時間には、自分に過度なプレッシャーを与えないことです。デザインでも音楽でも、好きだから楽しくやっているのだ。それだけで良いのだと。
 

「ダメ出し」の反対語は?

「ダメ出し」「駄目出し」は「駄目を出す」の名詞化で、もともと演劇やテレビなどの業界用語としてよく使われたものが、今では一般的になっています。使用方は言うまでもないでしょう。
 
ところで「駄目出し」の反対語は、何でしょう?ちょっとネットで調べてみました。以下はその答えの一部です。
 
「駄目出し」⇔「良し出し」?
「駄目出し」⇔「良い出し」?
「駄目出し」⇔「褒め出し」(ホメ出し)?
「ダメ出し」⇔「ポジ出し」?
 
先日何気なくテレビを見ていましたら、女優の吉田羊さんが「駄目出し」ならぬ「良し出し」という言葉を使われていて、それが心に残りました。
 
もしも「駄目出し」の反対語が今後一般化されるのでしたら「褒め出し」はちょっと気に入りません。少しお世辞っぽく聞こえませんか?それに比べ「良し出し」は美しい響きで、素直に心に届きそうです。今、僕たちがFacebookなどで、気軽に「いいね!」をポチっている行為は、この「良し出し」に近いのかも知れません。
 
反対語が「ポジ出し」という提案もあるようですが、「ポジ」の反対語は「ネガ」となり不可。用途的にも「ダメ出し」はそれほどネガティブな観点ではないでしょう。
 
学校教育の「いじめ防止策」でも、この「良し出し」に近い方法が注目されていると聞きました。程よい「良し出し」で、尊敬しあって暮らしてゆくのも楽しい気がします。
 

利用される?活用される?

言葉のお勉強。
「利用」と「活用」の違いは何でしょう?
 
学術的な答えは自分で探してください。(笑)ここでは、あくまでも僕の持論として話を進めます。「利」とは即ち利益。利用=何かを用いて利益を得ること。「活」とは活かすこと。活用=何かを用いてそれを活かすこと。言葉の響きとして、「利用する・される」は非常にイメージが悪い。逆に「活用する・される」は、イメージが悪くない。
 
僕は永年この「利用される」という言葉について考え続けてきました。僕は仕事が忙しくほとんど休めません。デザインの勉強、最新IT技術の勉強‥。様々な技術や知識を蓄え、持ち前のデザインセンスにも磨きをかけてきました。
 
それで毎回、最高の仕事ができるよう、お客様に喜んで頂けるよう、一心不乱に働いてきました。でも、ここ数年で、それらの仕事に無償という価値判断をされたり、仕事として着陸出来なくなったり…。そんなことが起きはじめたのです。
 
同じような苦しみを味わっている、若いクリーエーターも多いのでは?(笑)
 
また、こうしたスキルを持つが故、周囲から頼られて、ますます休めなくなる。メールアドレスをPCに設置するなどという、全くクリエイティブと無縁な分野で時間を失うことも多くあります。
 
僕はその高いスキルを「利用されている」と感じるようになりました。悲しい考えですが人間の心とは弱いものです。しかし最近気付いたことがあるのです。僕は「利用されている」のではなく「活用されている」と考え直したら、どうなのか?
 
目の前の霧が…さ〜〜〜っと、晴れてゆく気持ちです。そうか僕は、培ったその技術を世の中に活かしてもらっているのだと。
 
最後に武田鉄矢さん「母に捧げるバラード」の一説を引用します。これはまだ「利用されている」感覚に苦しんでいた頃、自分を戒めるためにつぶやいたものです。でも今は、もう少し大人の階段を上れた気分ですね(笑)
 
「人間働いて、働いて、働き抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うたら、一度でも思うたら、はよ死ね。それが人間ぞ。それが男ぞ。おまえも故郷をすてて都へ出てゆく限りは、帰ってくるときは輝く日本の星となって帰ってこい。」
 

風が吹くとき…を思い出す。

風が吹くとき
 
風が吹くとき「When The Wind Blows」は同名の原作および1986年に映画化されたフィルム作品。イギリスの片田舎に住む年老いた夫婦「ジム」と「ヒルダ」は平穏な年金生活を送っている。ある日、ラジオニュースで「核戦争が近づいている」ことを知り、政府から配られたガイドパンフレットに従い、手製のシェルターをこしらえ身を隠す。敵国の攻撃…もの凄い光とともに風…シェルターで難を逃れ、日常を取り戻したかに思えた二人。でも、放射能の風を浴びた二人の身体は次第に弱ってゆく…。
 
日本において戦争や原爆のことを考えれば、このような「のんびりした」作風では描ききれない悲惨さだったことは間違いない。でも2012年の日本で現在進行している原発問題についても、なにか相通じるものを感じます。国家政府や州当局をただただ信じ続ける老夫婦の姿に、身近な人の姿がダブらないだろうか。
 
原作・脚本:レイモンド・ブリッグズ(スノーマン等で知られる世界的絵本作家)
音楽:ロジャー・ウォーターズ(元ピンク・フロイド)
主題歌:デヴィッド・ボウイ
日本語版監督:大島渚
声:森繁久彌 加藤治子
 

いじめ…で思い出す、兄の教え。

小学校4年の夏休み。僕は2歳年上の兄と隣町の駄菓子屋さんの前に居た。そのお店にクラスのA子ちゃんの姿があった。A子ちゃんは小児まひが原因で知恵遅れ。クラスでは「フランケン」と呼ばれ、仲間外れにされていました。僕は「あ、フランケンだ!」と条件反射的に…彼女を避けようとした。その時兄の目が険しく変化したように感じた。
“いじめ…で思い出す、兄の教え。” の続きを読む

三河の鎌田・深津氏を研究

※この記事は書きかけです。
徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河国深津郷が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家。ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼光流、武田氏流などにもみられる。
 
“三河の鎌田・深津氏を研究” の続きを読む

天台宗の教えから学ぶ

  • 忘己利他(もうこりた…己を忘れて他を利する)
  • 他人を大切にすることこそ、自分を大切にすることになる
  • 和顔愛語(おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接すること)

 
瀬戸内寂聴さんが好きで、この言葉を心に置いています。「幸福な王子」とは少し違う感じです。人のために尽くすなら、まず自分を優先し大切にし、ちゃんと愛してください。それができてこそ、無理せず人を愛すことができます。
 
忘己利他は「自分のことは忘れられるような状況を作って、人のために働く」と、勝手に解釈してます。

自分の相撲を取る。

あまり相撲には詳しくないが、勝者のインタビューでこの言葉を耳にしたことが多いのではないか?
 
「自分の相撲を取れた」
 
この言葉は案外と深い。己の生き場を知った者の言葉だと思う。
 
自分のストロングポイントに気付かない者には、この印象は生まれないだろう。しかしながら「自分の長所を活かして生きる」ことは簡単なことではない。私の場合、自分の長所は何にでも全力投球し、命を削ったような行動も平気だ。でも周囲ではそれを、迷惑と感じかねない。それほどの日常では無いのだよ。もっと平穏なものだ、毎日は。
 
太った力士は、巨体を活かして小柄で素早い敵を押しつぶす。小兵は巨人の足下を狙う。地味な者はコツコツと精進し、歌が得意な者は土俵甚句で派手に美声を誇るだろう。大切なことは自分の持ち味を活かすことなんだ。今日の1勝に満足してはいけない。相手の弱みに付け込んで勝利を得ても、応援してくれる人に感動はない。
 
自分という存在は、唯一無二。誰にも代わりができないから尊い。呪縛から自我を解き放ち、自分らしい声で、大きな声で主張すればよいと思う。周囲の人を傷つけないようにね〜。難しいけれどできるはずだ。
 
「自分の相撲を取れているか?」を自問する。う〜、インタビュアーがここにいないので答えは夢の中で…笑。おやすみ。

幸福な王子という短編小説を紐解けば…。

 「幸福な王子」というお話は、幼少期に絵本で繰り返し読んだ記憶があります。絵柄などは覚えておりません。最近になってこのお話が「童話」というよりむしろ「短編小説」と位置づけされることを知りました。作者はオスカー・ワイルド(アイルランド・ダブリン出身の詩人・作家)です。
 
 オスカー・ワイルドは私が敬愛する刑事コロンボの「黄金のバックル」という作品で、犯人の女性と被害者(彼女の弟)とのユーモラスな会話で登場することもあり、強く印象に残っていました。その印象通り、このオスカーの短編集におさめられた作品は、皮肉めいた主題に基づき、何か大きなことを語りかけてくるものです。
 
 「幸福な王子」のあらすじについては、この場には記載しません。ぜひ、ご自分でお読み下さい。私がこの日記で語りたいことは、その「幸福な王子」という短編小説をもとにした絵本を、幼少期に読んだということへの感謝です。おそらく私の父親が幼い私にプレゼントしたものと思われる。水彩画・あるいはパステル画風の挿絵に彩られた、数ページの絵本だった。
 
 世の中は間違いだらけで、よそ道に逸れたくもなるもの。それでも信じた道をひたすら進んでいれば、きっと報われる、「間違っていなかった」ことを悟り大きな幸福感に包まれる。
 
 それは、それは、難しい…、ことですね。でも不可能ではない。
ということを発見し、冷たい布団にもぐり込んで寝よ!
  

伊藤若冲が好き。

伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は細密な動植物の表現で有名な江戸時代の日本画家です。僕の父親が書道家をしていて、彼の書棚に書家や日本画家の作品集が納められていた。おそらくその中に「伊藤若冲」も有ったのではないか…。(父親は有名な書道家ではなく、師範ではあるが子供に教える程度)
 
これまでの僕の認識では、恐ろしく細密で、ほとんど奇人とも言えるほど描写にこだわった画家。「鶏」「像」「魚」の絵がとても印象的だということ。それらの奇想天外な魅力を十分理解していました。
 
この春にNHK BSプレミアムで放送された「若冲ミラクルワールド」の第2回でも特集された「若冲の水墨画」。今回の「極上美の饗宴」でも、若冲の水墨画にスポットを当てていただき、若冲の世界を堪能させてもらいました。
 
僕が特に注目したのはジョー・プライス氏所蔵の「鶴図屏風」。計12枚の鶴の絵が連なる屏風。潔い筆さばきと、大胆な構図による連作で、その表現力とレイアウトがあまりに素晴らしい…。思わずため息が出ます。1枚の画像を題材として、少し語ってみます。
 
まず、鶴のボディの表現で、卵のような楕円形で全体をつかんでいますが、その中には1本の線も描かれません。尾羽の部分を真っ黒な墨で締めて、細くて固そうな脚が真っ直ぐに降りています。脚の輪郭は正確な点線。それを汚すように地面の曲線が交差している。
 
二羽の鶴は、愛し合っているのか…お互いを意識しているように見える。手前の鶴の顔はほとんどが自分の背中で隠れ、クチバシの位置は明らかに実際よりも離れて描かれている。尾羽の黒は、薄い部分を伴っているが、これは塗り残しで羽の薄い色を表現している。
 
おそらく見える限りでの「迷いが一切ない」。これは他の日本画家にも共通するのかも知れませんが、凄すぎて絶句します。僕は今日、雑誌広告のデザインをしたのですが、何回もやり直してフィニッシュまでたどり着きました。
 
もっと他の絵を見てみたい人は「伊藤若冲 鶴図屏風」で画像検索すると、連作の全てを見ることができます。

何かを見て勇気をもらう…

なでしこジャパンのワールドカップ優勝。これを見ていた東北の方々が「勇気をもらった、頑張れる気がして来た」とメッセージを述べておられた。感情が揺れ動く=まさに感動、ということだと思います。なでしこジャパンの場合は、日本人であればいやおうもなく飛び込んできたビッグニュースですが、そうでなくとも自分なりに良いものを探し見つけては感動することもできるはず。
 
目で見、耳で聞き、舌で味わい、肌で感じ。それらを吸収し、自分の生き方や仕事に活かしてゆくこと。それの繰り返しで得られる感覚で、最も尊いと思えるのは「自分の可能性を諦めないこと」に気付くことです。ただ過ぎ去っている時間が、とても意義深い時間へと変化します。
 
「勇気をもらう」という言葉は、苦悩のない幸福の時間からは生まれない言葉でしょう。しかし「勇気をもらった=感動した」という図式が正しいのであれば、苦しむからこそ喜びもあるのだ…とも考えられます。
 

「絶対位置」と「相対位置」

CSSを知っている人であれば、「絶対位置=absolute」と「相対位置=relative」について考えた事のある人もいるかもしれません。これまで自分はウェブデザインにおいては、標準的な作業の中で「相対位置」的なレイアウトをしてきました。パーツが重なる危険が少ないからでしょう。
 
仕事における考え方と、このCSSの理論を重ね合わせることを思い立ちました。自分はこれまで、デザイン論としては基本的に「絶対主義」を前提にしていました。これは、「自分の信ずるデザイン」「自分の求めるデザイン」を基本としてスタートし、クライアントや周囲からデザインを褒められても、それはビジネスとして合格点かもしれないけれど、自分の価値観としては別の評価を下すというもの。
 
それはそれで、正しい?というか、仕方ない事ではあるのですが、エスカレートすると「ごり押し」「押しつけ」「独りよがり」な方向に偏る危険もありました。最悪は「空中分解です」。かといって、クライアントに気に入られることを第一に考え過ぎては、仕事が萎縮し、せっかく良い感性を養っても活かすことができません。
 
そこで気付いたのが、この「絶対位置=absolute」と「相対位置=relative」を仕事のスタンスに応用することです。簡単にまとめますと、
仕事のスタート時点において、相手の希望に沿うこと「相対位置=relative」から始めることです。その後の、専門的な分野では自分の経験とスキルを活かして「絶対位置=absolute」、すなわち「主観を重んじる」ことです。
 
CSSにおいて、「absolute」とはかなり乱暴な位置の決定です。始点を「absolute」とすると、その配下の位置はすべて始点に委ねられ、それが間違っていたらすべて間違いとなります。逆に、始点が「relative」の場合(あるいは初期段階でrelativeを宣言した場合)その後の「absolute」は、修正可能なのです。
 
これに気付くのに何十年もかかりました。デザイン暦28年、今自分が心がけることは「始点は相手に合わせなさい」ということ。その上で、自分の持てる発想・技術を活かせば良いのです。そうすれば「独りよがり」にもならず「イエスマン」にもならずに、良い作品が生み出せると感じます。

皆、大きな矛盾の中で生きている。

3月11日の午後。大河ドラマ篤姫の再放送を見ながら、せこせこ仕事をしていたら、画面がぱっと切り替わり、あの惨事を伝える画面が流れました。その瞬間から、日本という国が大きく揺らぎました。とんでもない事が起きているということは自分にもよく分かりました。目を覆いたくなるような映像が次々に目に飛び込んで来ました。
 
それから1ヶ月が過ぎました。心は痛むばかり…。でも、決して世の批判ばかりをする側には回るまい、と強く念じます。無力だと酷評される与党政府、どさくさ紛れに政局を挽回する野党でさえも、みな虚しさに耐えこの国のために働こうと頑張っている気さえするのです。この状況で国を憂えない国民など一人もいないでしょうね。
 
ただ一つ、私が訴えたいのは「強い者が、強くあって欲しい」と言うこと。抽象的な言い方しかできないけれども、「強い者は、惜しまず力を発揮してほしい」です。なぜか、政治家の方々にはそれを感じません。皆、頑張っているのにね。自分もかなりぐずぐずしているので、彼らを批判することはできません。私は、ゆっくり、じっくりしか動けないけれど、小さな力かも知れないけれど、しっかりと持てる力を伝えて行きたいと思います。

今年は設立20周年。

ファクトグラフィックは1991年に設立されました、2011年で設立20周年を迎えます。
独立・事務所開設、事務所移転などの節々に親しい方を呼んでパーティなどをされる方もいらっしゃるようですが、私の場合はこれまで一切そのようなことはしてきませんでした。今ふりかえってみれば、2001年は21世紀の始まりでもあり独立10周年でもあった。○○周年などは、単なる通過点なのでしょうが、20周年ともなるとよく継続できたものだと、感慨深いものですね。
 
思い返せば20年前、東京都渋谷区でデザイン事務所を開業したとき、一番最初に入って生きた仕事は、ロゴステッカー(カッティングシート)100枚を手作業で切り抜くというもの。デザインの仕事というより内職でね。「こんなことをするために独立したのか?」と、強い葛藤がありました。しかし依頼主は「お金のために我慢する」のではなく、「要望され、それに応える」という基本からまず学べと、教えてくれたのでしょう。
 
その後は「ロゴステッカー」の広告代理店より続々とデザインの仕事を受注できるようになり、忙しいフリーランス生活が続くようになりました。「要望され、それに応える」という基本は今でも持ち続けています。当たり前のようですが、真剣に向き合うと意外と大きな問題なんですよ。

永遠の楽観主義

永遠の楽観主義などという、とめどないキーワードでネット検索してみても、いろいろ引っかかりますね〜。その中でもノベール賞を受賞した日本人化学者の言葉をクリックしてください。この「永遠の楽観主義」は、強いメッセージとして私の心に響きました。
 
私の解釈では、ノーベル賞を受賞するような意義ある発見・発明は、これまで誰もその答えを導き出せなかったような事柄でしょう。想像を絶するような困難なことです。であれば、少しの努力では発見できなくて当然であり、失敗は毎日毎日続くもの。それでも悲観せず諦めず、いつか実を結ぶと信じて続けているからこそ、価値ある発見にたどり着くものだと。
 
まずは自分を信じ、日々精進を怠らず、技術を磨き、人の助言に耳を傾け、あらゆる可能性を模索し、それで結果が得られなくても悲観せず、明日も頑張ってみる。しかもそういうことが好きである。
 
こんな人生を送ってみたいですね。私は少なからず実践できている部分もあると思います。だからノベール賞化学者の言葉は自分への応援メッセージのように感じたのでしょうね。

カレーが記憶力向上に効果。

日曜のお昼、相変わらず仕事が休めずお昼を食べてから出勤しようと、駅前のカレー屋さんに入った。消極的にメニューを選んで水を飲みながらふと目の前の壁を見ると「カレーが記憶力向上に効果」との新聞記事の切り抜きが貼ってあるので、読んでみた。
 
『カレーのスパイス「ターメリック」(ウコン)に含まれる成分から、記憶力を高める化合物を、武蔵野大と米ソーク研究所が合成した。動物実験の段階だが、将来、認知症の治療などに役立つ可能性があるという。』
 
最近記憶力が低下し、新しい歌詞がまったく頭に入らなくて困っていたので「おぉ、これは吉報!」と俄然積極的になり、カレーを一気に完食し、気分よくお店を出たのであった。交差点の手前まで来たら、カレー店のスタッフの女の子が血相をかえて走りよって来て、
 
「お、お客様〜、携帯電話、お忘れです!」
「お、おぉ、すみません、どうもありがとう…」
 
食った直後に効くわけもないのですが。「記憶力」と「注意力」は別物だと自分に言い聞かせ、積極的な気分のまま午後の仕事にいそしんだ〜とさ。めでたし。

何年かに一度の開眼。

自分のウイークポイント、弱点、を克服することは、簡単なことではありません。何かをするにつけ、良い結果が伴わなかった場合など、自らに反省を促し、次回は良い結果を出せるように努力します。それは、物事に真面目な性格であればより顕著になったりするでしょう。しかし、なかなか改善しないこともあります。それがいわゆる弱点となり自分につきまとうのです。
 
自分の場合、練習スタジオではまあまあ歌えるのに、ライブになると今ひとつ力を発揮できない。毎回頑張っているのに、なかなか改善しない。まったく失敗というほどハッキリしているわけではないのですが、納得ゆかないことが多い気がします。それは「緊張するからだ」と、ずっと思っていました。確かに普通の人に比べると「ステージ度胸に欠ける」のは自分でも分かっていて、なるべく緊張しないように工夫したつもりでした。
 
で、突然、今日、ちょっと違うのではないか?と気付いたのです。確かに緊張はするけど「あがっている」わけではなく、かなり正気です。たぶん「緊張」が原因ではなく「力(りき)み」が原因なんだと!自分は責任感が強い方で、ライブステージに上がると、「頑張らなくちゃ」「期待に応えなくちゃ」「楽しまなくちゃ」などと、「力(りき)む」傾向が強いのです、きっと。
 
これは以前、友人から指摘されたことがあったのですが、やはり「自分で気付く」ことが大切ですね。自分のことを自分で修正するのは、大変難しく、それは性格を修正するのに近いことかもしれません。でも、弱点(自分の嫌な部分)を直せるのであれば、努力する価値はありそうです。
 
やみくもに「頑張る」だけでは、良い結果は得られない。むしろ過大な「力」は不要な場合もあり、少し力を抜いて、7割くらいの力で物事にあたることも必要なのかも知れませんね。これはソフトバンクホークスの馬原投手のテレビ番組を見て、気付いたことです。
 
今回の気付きが「何年かに一度の開眼」となるかどうか?それは、今後の結果次第です。 

タミヤのプラモに憧れて…。

先日、ある方と事務所で歓談していた時に、この話を思い出しました。
19歳の頃、タミヤ(田宮模型?現:TAMIYA)のプラモデルのパッケージのようなきれいなデザインの仕事がしたくて、この業界に足を踏み入れました。当時のAD(師匠)から「悪いこと言わないから、やめときな」と釘を刺されましたね。まずタミヤの仕事をしているデザイン事務所に就職すれば良かったとも思うし…。
 
それでもこれまでの仕事の中で最も「タミヤ」の仕事に近かったのは、広告代理店からの依頼で携わったレーサー「星野 一義氏」のホシノインパルのお仕事。写真は、カルソニック・マーチのカラーリング・デモ。下が素材写真で、それを元に、色変換やロゴを乗せたりして、デザインを作ってゆきます。最終的に上の絵のように仕上がったのですが、それは、それは嬉しかったです。
 
今となっては、別段困難な作業でもないのかも知れませんが、当時は、誰に教わらずに、このように、創意工夫して仕事をしていたものです。懐かしいです。そして、この仕事を自分に任せてくれた、プロデューサー熊谷さんへの、感謝を忘れてはいけないと…心から思います。

人は向上し続ける。

先日、テレビでプロサッカー選手三浦知良さんのドキュメンタリー番組を見ました。番組の内容には言及しませんが、彼の生き様を知る良い機会になりました。自分の心に響いたキーワードは「人は向上し続ける」「考え方ひとつで全てが変わる」。
 
人は向上し続ける…。
 
言葉にすることは簡単ですが、実践することは非常に困難です。スポーツ選手に限らず、人はあるピーク時点を境に肉体や記憶能力が衰えます。自分のようなデザイナーであっても衰えは実感するものです。しかし「昨日よりも今日、今日よりも明日、もっと向上するのだ」という強い意志を持っていれば、乗り越えられる気分になりました。
 
考え方ひとつで全てが変わる…。
 
これは野球の野村克也さんも同じようなことを言っています。何も考えていない→考えて生きる。一つの考えを信じて生きている→それを変えてみる。その時に新しい何かが始まるのかも知れません。自分の場合「一つの考えを信じて生きている」派でした。三浦知良さんの「人は考え方ひとつ」の言葉は、そんな自分に問いかけた言葉かも知れません。

2009年は刑事コロンボにハマり。

2009年の最大の関心は「刑事コロンボ」でしたね。決して推理ドラマのファンというわけではありません。「コロンボ」が自分に教えてくれるものは、計り知れないほど大きいのです。自分が好きなコロンボは、床にはいつくばって落ちているゴミを探します。そこに一点でも疑問を感じれば、そこから捜査の道筋ができるのです。仕事も趣味も同じです。常に周囲に興味を持ち、面白い発見を期待します。それは毎日の日常の中でいつも同じ気持ち。そうすれば人生は数倍楽しめると思います。2010年も、ボチボチって感じでがんばります。

仕事は自分を幸福にするか。

仕事は自分を幸福にするか?
 
一般的な仕事は金銭収入を伴うので、生活のために仕事をしている人が大多数です。だから「自分はデザインで飯を食っている」などと表現しますね。「自分は会社員で飯を食っている」という表現はありませんので、「職種を指す」言葉です。その反面「ウチの亭主は仕事のことしか頭に無い」「仕事人間」「家庭をかえりみない」など、行き過ぎると周囲から非難されるようです。
 
現代社会では「仕事の失敗=死」という物騒な構図はあまりピンときませんが、例えば戦国時代は「戦での敗北=死」だったでしょう。極端な例では、一族皆殺しという悲惨な敗北もあったと伝え聞きます。このような環境下ではまさに「命がけの仕事」であって、幸福でいるためには「良い仕事の連続」が条件となったはずです。ただし、この時代の仕事は「幸福論」とはほど遠いです。
 
「良い仕事」を維持し続けることは、なかなか難しいものです。偶然ではなく必然の連続です。自分が思うに「ある程度の強い意志(スタイル)」を持っていないとそれは不可能なのではないでしょうか。また、その仕事が好きでないと持続できない気がします。
 
自分の生活サイクルとしては、仕事をしている時間がざっと5割。毎日休み無く12時間働き続けて5割と計算すると、恐ろしい数字です。睡眠時間を除けば、ほぼ仕事にあけくれる人生です。仕事以外の時間(例えばこのブログを書いている行為)ですらも、仕事で役立つよう自分を鍛えている時間ですし。戦国時代の兵士のように「仕事=命」という単純な式ではないにしろ「仕事での充実感=人生の充実感」と考えて生きているようなものです。
 
かなり若い頃から、この式には気付いていました。自分は自分の人生を充実した幸せなものにすべく、修行を積んで来たのです。今でもそれは続いています。
 
仕事で自分を幸福にするためには、自分の好きな仕事を見つけ、そのために出来うる限りの努力をし続け、世の中から喜ばれる「結果」を出すことでしょう。まだまだ「休みたい」「遊びたい」など、邪念が頭をよぎりますがね。自分を励ましながら、頑張ろうと思います。