損と得を逆転させる発想。

数年前から「損と得を逆転させる発想」を持って生きている。
 
これは自分のように「子供を持たない」から生まれた発想かもしれない。もしそうでなければ、話は少し複雑化する。
 
例えば自分が買い物をした場合、値札よりも安い代金で買えるよう、店員にしつこく交渉し、値切ったとする。店では予定通りの利益が得られずロスが生まれる。安く買い物をした自分は、気分が良いだろうか?
 
20万円の品を19万円で手に入れ、その直後に交通事故にあい、死んでしまえば1万円の得は何の価値もない。
 
こうして地道に「得を積み重ねた」人間が、死を迎えた時に1000万円の貯金を残したとする。遺産を手に入れた人間は税などを考慮しなければ1000万円の得をすることになるが、努力無しで得られたた金で幸せに生きられるだろうか?
 
このようなことを考えながら生きている人も稀だと思うのだが、実際生きている中で「損だ得だ」と金勘定をしている人は、人生において本当に得をしているとは考え難い。逆に「自分が損をした」「高い買い物をした」「人の分まで自分が払った」などの場合、必ず相手が得をしているわけだ。それは、その相手が得した金銭を有効に使ってもらえると信じて、自分が幸せな気分になれるもの。
 
例えば自分は高級ブランドの洋服を着たい願望もないし、毎日を贅沢に囲まれて生きていたくもない。自分の好きな仕事をし、HDに録画した刑事コロンボを何度も見返したり、ライブの度に、愛用のギターに新品の弦を張れて、演奏後にバンド仲間とビールを酌み交わすお金があれば十分。友人たちは一見、自分のことを「プチ成功者」。と見るかもしれないが、実際にはかなり質素な生活環境で十分人生を満喫できるのだ。
 
例えば仕事上で自分の信条とも言えること。それはギャラ以下の価値の仕事はしない。むしろ、ギャラを上回る価値のある仕事を延々と続けてゆきたいこと。それは、言い換えれば永遠に「損し続ける」ことでもあり、相手に「得をし続けてもらう」ことなのだと思う。それで得た収入で、自分が幸せに人生を全うできれば、何も言うことはないです。
 

捨てる神あれば拾う神あり。

仕事でも人間関係でも「捨てる神あれば拾う神あり」。この言葉が身にしみることがあります。ある場面でまるで捨て去られたような心境になる出来事があったとしても、他の場面でも、そうなるとは限りません。自分が同じ人間であっても、環境が変わるだけで、自分の持っている力が役に立つものなのです。これは、多くの人が人生の経験で感じていることなのではないでしょうか?
 
例えば会社の人間関係で「あの人は嫌い、たぶん誰からも好かれないハズ」なんて決めつけても、その人は家庭では愛されるパパなのかも知れませんよ。だから、とある人間関係で心が傷つくようなことが起きても、必要以上に悲観することはありません。自分の考えるとおりに生きていても、他の人間関係では良好に続くことだってあるんです。
 
自分が自分を戒める時、それは上手く行かないことを一方的に相手のせいにして、その人の不幸を願うことです。「あいつは誰とも仲良くできない人間だ」ってね。その考えはいけません。まず自分をよく見つめ、誠実に生き続けること。そして、自分が立ち直れた時に、喧嘩別れした相手の幸せを願えることが大事だと感じます。少なくとも、自分はそうなれるよう努力したい。
 
 

自分のセールスポイントとは?

私のように自分でデザイン事務所を構え、自分を紹介するウェブサイトを自分で作っていれば当然のように自分のセールスポイントは明確にアピールできていると思います。デザイン事務所に勤めている方の場合は、なかなか自分のドメインを取得し個人のウェブサイトを持つということも無いかも知れませんね。
 
自分の場合、一つのウェブ作品をほぼ一人で作ることができる…ということが強みです。ウェブディレクションからフラッシュ、htmlコーディング。どれが苦手ということもないです。いずれの作業も基本は「デザイン感覚重視」ですので。ある程度の文章も書けますし、写真も撮影できます。ロゴも作れます。SEOやCSS、CMSなどデザイン感覚重視でない仕事もある程度無難にこなせるし、ブログのカスタマイズやEC-CUBEの知識も得、今はWPの構造について勉強中です。
 
一昔前はこういう状況を「器用貧乏」などと表現したものですが、今ではその器用さが「一人で作品を作ることができる」と自分で評価しています。野球で言えば「走攻守」を備えている選手が目標です。これは、あくまでも自分のように個人あるいは小さな組織で生き延びるために必要なスタイルです。
 
そのような時には先述のように、自分のウェブを自分で作ってみると良いのかも知れませんね。自分の弱点が見えてくる?自分のセールスポイントが何なのか見えてくる?何れにしても、成長するヒントが見えてくる気がします。

巨視と微視を持て。

「巨視」とは巨大な視野「微視」とは微細な視野。

これはウェブデザインにはあてはまらない言葉です。ウェブではせいぜい、ブラウズテスト出来ていれば合格ということでしょうか。ウェブデザインを遠くから眺めることもないでしょうし。

巨視と微視を持て。という言葉は自分が東京での修業時代に尊敬していたデザイナーの森下先輩から教えてもらいました。グラフィックデザインは、まず大きな目で全体像をつかみ、出来上がりの方向性を見極め、ほぼ固まった状態で細かい部分を調整します。
 
「巨視」はPCでデザインする場合であれば、小さく表示すれば良いのですが、できれば原寸に近い状態で表示し、自分がデスクから遠く離れて見た方がベターです。目を細めて見ることも効果があると思います。「微視」の方は、テクニックがいろいろあります。黒い四角(あるいは白)の矩形を作って、いろいろマスキングして、隠しながら揃いをチェックしたり、拡大したり縮小したりして、バランスを見ます。文字も1文字単位でアキを調節します。
 
こうして「目を鍛える」ことは、大切なことだと思います。

ウェブデザインを考え直す。

ウェブデザインについて、もう一度考え直す必要を感じました。今年になって、ひとつ大きな失敗をおかし、それからずっと考えていました。
 
ウェブデザインは広告手段のメディアとして受注することがほとんどで、クライアントの希望にかなう仕事をすることが第一であることは言うまでもありません。それはもっともな考えであると断定しても、作者により出来上がるデザインのテイストや、構成は大きく左右されます。よって、クライアントの要望をすべて自分が達成することも難しいことです。
 
これまで自分が求めてきた仕事は、大まかに見て「訪問者に何を伝えるべきか」を中心に考え、クライアントの要望をそこに上乗せするというものです。この「訪問者に何を伝えるべきか」を考える作業は、時間と体力を要します。しかし、そのポイントをうまく表現できた時には、クライアントから賞賛されます。
 
少し整理しますと、こういうことです。クライアントの望むものを作っているのではなく、訪問者に喜んでもらえるよう作っているのです。それにはまず、対象の特長を良く理解し、好きになり、こんな素晴らしいものがあるので、それを大勢の人に見て知ってもらいたいという願望を叶える仕事をするということです。
 
こういうことを考え始めたのは、ウェブデザインをするようになってからです。もちろんグラフィックデザインでも同じようなことが言えますが、グラフィックはもう少し振り幅が広い感覚です。それは、ウェブデザインが「画一的」になりがちなメディアだと言うことにも関係します。小奇麗にウェブデザインが出来る技術を身に付け、毎日同じような作業にあけくれると、力を感じるデザインが出来なくなるような気がします。そこで、どの仕事でも対象をよく理解し、自分にしか出来ない仕事をするように心がけるようになったのです。
 
失敗した理由は自分のデザインが受け入れられなかったことに起因しますが、上記のようなプロセスが通用しない場合もあったということで、割り切るようにしています。自分なりに失敗を検証し、反省すべき点は直そうと思いましたが、萎縮しすぎて自分を見失ってしまってはいけません。失敗後も、ひとつひとつ新しい仕事に真正面から取り組み、自分らしい仕事ができていると評価しています。

逃げずに闘え。

自分に言い聞かせる言葉。
 
将棋の羽生さんは「例えば二つの選択肢、楽と苦があるとすれば、苦しい道を選べ」と言っています。映画の宮崎駿監督は「人を楽しませる映画を作るということは、苦しみを伴う作業だ」と言っています。自分が好きなベートーベンやゴッホも、生前は決して幸せだったとは言えないでしょう。苦しみの大きさと作品の感動が比例するとは思いませんが、楽をして人を感動させることは難しいのだと実感します。
 
ただしそれは、あくまでも自分に課すものであり、決して他人に求めるものでもありません。自分が考える「逃げずに闘え」とは、自分に与えられた課題に対し自分なりの解釈を加え、妥協することなく最後まで闘えということです。
 
ジョンレノンやベートーベンの作品を聞いていると、分かることがあります。技巧的に優れているというよりも、「自分を表現する圧倒的な力がある」ということです。最近ではイチロー選手にも同じようなことを感じます。天才と言えばそれまでですが、何でも上手にこなす才能というより、唯一無二であるはずの自分と正面から向き合い、それを表現できるのでしょう。

長く続けた者の勝ち。

何年もの間、デザインやもの創りに関わってくると、だんだん自分のデザインスタイルが確立してきます。それは必要なことでもあるし、自分らしい仕事になってゆくために大事です。しかし、ある時ふとそれが素晴らしいことではない気がすることがあります。ウェブデザインなどで、他者の素晴らしい作品を見たとき、自分のこれまでの作品が稚拙に思える瞬間もあります。少し自信を喪失している状況なのかもしれないけれど、それがそうとも言いきれないのです。
 
それは、ずっと自分の信じる道を歩み続けていると、先に進んでいることが惰性のように感じたり、進んでいる速度や方向を見失ったりするのではないかと思います。さらには、気付かないうちに前進するスピードが増して、少しでもスピードが落ちると自分がダメになったように錯覚したりします。
 
そんな時は、思い切って止まったり、人に道を尋ねてみるのも良いかも。マラソンランナーならそのレースはもうリタイヤです。でもこの仕事はそれほど白熱したレースばかりではない気がしますね。止まったり休んだりした時、その過ごし方次第では、次に違う生き方ができるもの。
 
自分はこれまで25年間走り続けてきました。いまでも効率よく走れる走法はできないし、いつまで走るのか考えたこともないです。ま、これからは止まったり、ゆっくり歩いたりしながら進もうかな。でも、長く歩き続けるには、やはり楽しい歩き方を見つけないとね~…難しい気がします。
 
この不景気の中、仕事を続けられなくなった同業者も多いとは思いますが、引退勧告のない職業ですから、長く続けた者の勝ちです。これから、新しい作風が生まれるかもしれないし。いろいろ勉強しよ~っと。

トップランナーの言葉

先日、私用で東京に出向きました。趣味の音楽関係の友人の誕生日のお祝いパーティに出席するため。僕は自分の管理にトコトン弱いタイプで、これまでに数々の失敗を重ねて生きているので、今回は「帰りの飛行機に間に合う!」ということを、最重要課題とし、少し前に羽田空港に到着する計画を立てました。
 
しかし、それが毎回達成できれば数々の失敗は無かったわけで、案の定、今回も空港に2時間半も早く到着し、ひたすら時間を潰すこととなりました。(10時半に羽田発の飛行機に乗るために、9時半に空港に到着しようと試みたが、思ったより早いルートを使えたため、9時過ぎに到着。で、見間違いで、実際の発が11時半だったため)
前日にパーティ~四次会まで参加し、12時間以上飲み続けたため、極度の疲労を感じつつ、切らしたタバコを購入するために40分歩き回り、律儀にホテルで朝食をとったため、お腹もすいていないので、待合椅子で缶ジュースを飲んだり。ちっとも時間が過ぎません。
 
何気に、本屋に立ち寄り「何か本でも読もう」と思い立ちました。
 
活字が苦手なので、断片的に読めるな~と感じたNHKテレビ番組の「トップランナー」の言葉を集めた小さな本を買いました。(本の売れ行きに関わりたくないので、実際に掲載された文言ではなく、あいまいな記憶に基づいて語ります。)
目次があって、そこにトップランナーたちが語った主題のようなものが並んでいて、その職業や、魅力的なキャッチコピーをたどって、ページの前後関係無視で読んでゆきました。
 
その時に目にとまったフィギュアスケートの第一人者が語った言葉。
「フィギュアスケートは美しいことを目指すもの。しかし、自分の持って生まれた容姿は、外国の選手たちと比べ決して美しいものではないかもしれない。でも、もしも、自分が望むものが生来得られていたとしたら、そこには努力するという最も大切な心が生まれなかっただろう。一見とりえの無い自分だが、神様が与えてくれた『スケートを愛する心』に感謝している。そのおかげでひと一倍努力できたから」
 
この(記憶に基づく)数行を読んだ時、心の奥から熱いものが込み上げ、眠気も疲れも吹っ飛んで、目が潤んでしまった。
自分へのアドバイスだと感じました。このところ、自分に自信が持てない時間を過ごすことが多くなっっていて、しかも、もう若くないので、衰えとも闘う日々。でも、そんな暗いトンネルのような心境の中で掴んだものは「出来ることをやるしかない」という、ごく単純な解決策でした。「好きなことを自分なりに一所懸命、時間を使って、コツコツやっていればいいじゃん」という、開き直りのような感覚。で、サボりたい時には休めば良いし、嫌いになったらリタイヤすればいい。
 
でも、本当に好きなことだったら、諦められないんです。結果は死ぬまでわからないんです。「デザインを愛する心」「音楽を愛する心」は、神様が僕にプレゼントしてくれました。「上手にできなくても、好きなんでしょ?最後まで頑張れ!」っていうことなんですね、きっと。

仕事は1日寝かせるに限る

デザインには好不調の波があるように思う。でも、調子が良さそうな日って落とし穴が待っているようにも思える。1日でばばっと仕事が捗った日など要注意。そういう場合は、カレーのように1日寝かせて、明日の朝にもう一度眺めた方が良い。

地方で頑張るデザイナーの最大の欠点

地方で頑張るデザイナーの最大の欠点‥それは、勉強を怠ることだ。
 
勉強とは何か?それは、仕事に直結しない知識を得るための時間だ。知識とは何か?アート作品の鑑賞、アーティストを知ること、そしてそれを楽しむと。または、デザイン理論を学んだり、スタイルを学んだりもできる。さらには、デザインの歴史も面白いし、デザインから離れて印刷などの雑学、建築やプロダクトデザイン、音楽、演劇、映画へと勉強心は発展する。
 
25歳で東京へ出た時に、今までの自分のスタンスと全く違っていると気づいたのはこの点だ。仲間とお酒を飲みに行っても全く話に着いて行けないのだ。「好きなAD」「好きな写真家」「好きな画家」「好きな映画監督」一切、何も、考えたことがなかった。これまで田舎でデザイナーをしていた自分は、常に「今そこにある仕事に直面している」だけだった。その時には「そんな知識など仕事において何の役にも立たない」と感じていた。
 
今は、おぼろげながらもこのような結論に達している。
 
「デザイナーは美に対し興味が ある or なし で大きく変わる」
 
要するに、美しい絵が見たい、美しい写真が見たい、そんな単純な欲望が抱けない者には、美しいデザインは出来ないということです。なぜなら、美しい物に興味を抱くことは努力なしで出来るはずだから。美しい物を創るという作業は、その何倍も難しいことなのです。

目に映るものがバイブル

1990年に朗文堂より出版された「evolution International message 1」が未だにデザインバイブルになっていると思える時がある。何も「困った時のパクりネタ」という意味のバイブルではなく、スイス的デザイン感覚をぱぱっと視覚的に再確認できる本として、デスクの脇にいつも置いてあるだけなのだが。
 
コーヒーを飲みながら、タバコを吸いながら、何でも良い。自分の目が行き届く範囲に「目につくデザイン物」を置き、何かの拍子にそれに目が行っているだけで、デザイン感覚は磨かれて行くものだと思う。もしもグラフィックやウェブデザインで「自分の世界を作りたい」のであれば、現実の自分の周りにも「自分の世界」を作ってみたらどうか?
 
僕は25歳~28歳までの3年間を銀座のデザインプロダクションで過ごしたが、そのオフィスもやはり「目に見える世界」、例えば社長室、本棚、ミーティングルーム、先輩のデスク…それぞれがデザイナーの感覚に満ちていた。

座右の銘から学ぶ

平尾には「居酒屋 初心」という、とても良い店がある。大将や女将の仕事に対する姿勢をかいま見るに、全くもって慢心を感じない。まさに「初心忘るべからず」。
 
この「初心忘るべからず」という言葉は、思ったより重い。なぜならまず「初心」を持っていた人が何人いるのか?という大きな疑問がある。おそらく数十パーセントの人がこの時点で「初心忘るべからず」を座右の銘にできない。
 
自分の場合もすっかりそれにあてはまってしまった。業界に足を踏み入れた頃、もしくは独立しフリーランスになった頃の「初心」は、何であったか?
 
今更ながら、自分の初心をこの場で再定義できるのであれば、「自分らしく生きる、自分らしい仕事をする。結果は後で着いてくる」というようなものだろう。
 
それが「独りよがり」「傲慢」「我がまま」であってはならない。あくまでも商業デザイナーであるという前提だ。

自分に与えるプレッシャー

「やれば出来る」と簡単に言うが、「出来た」という結果があって初めて成立する言葉だ。その反対に「やらなければ出来ない」し、「出来なかったのだから、真剣にやっていなかった」と言われることもあるだろう。
 
数年前より顕著になった傾向で、仕事の打ち合わせの時に「ぜったいイイもの作ります」的な言葉を言ってしまうことがある。でも実際には何の根拠も無く、ただ単に「頑張ります」というニュアンスだ。しかし、その言葉を聞いたクライアントは異常に期待し、「この人に任せておけば絶対大丈夫」のように感じてしまう。
 
仕事が回らない状況が続くので、打ち合わせの後すぐにその仕事を始められるわけではなく、数日あるいは数週間寝かせることになる。そして、提出の記述が迫ってくると、とてもイイものが出来ないような気がしてくるのだ。
 
でも「イイものを作る」と約束したようなカタチになっているので、後悔の念や自信喪失、時間が足りないという物理的な悩みに負けそうになる。
 
最終的には開き直って、どうにでもなれ!ってデザインしているけど、ふとした瞬間、マラソンで言えば40キロ過ぎた感じの時に、ふと、イイものが出来そうな気分が戻ってくるのだ。毎回こんなことを繰り返していたのでは、身も心も消耗するよね。

凹んだ時こそ階段を上がっている

デザイナーとは本当に難しい職業の一つだと思いますね。
 
これまで24年間グラフィックデザイナー、アートディレクター、ウェブデザイナーと、デザイナー人生を歩んできましたが、未だに難しいことの山盛りです。レイアウト一つとっても、決して何が正解か?というものがあるわけでなく、自分なりに正解と思われる選択をし続けないと、きれいに仕上がりません。
 
アートディレクションに至っては、もっと訳が分かりません。「何かかっこイイモン作って?」って感じで頼まれてアイデアを出すこともあります。ほとんどの場合、何となくこんな感じか?って作っていって、もちろんそのアイデアが「正解である」という自信がないままに提出することもあります。「正解」であるか否かは、そのクライアント(あるいは担当)の判断に委ねることになるからです。
 
デザインの世界では「アリ」「ナシ」議論が良く起ります。例えば、このアイデア(レイアウト)はアリだね。といった感じです。先日、とあるクライアントの担当者から間接的に「このアイデアはあり得ない」とこっぴどい評価をいただきました。間接的に聞いた話で、どういう理由で「あり得ない」のかは、教えていただけませんでした。自分で考えるしかないようです。アイデア自体があり得ないものだとは思えませんが、相手の環境を加味すると、少しだけ理解できるような気がします。仕事の内容に関しては明らかにできませんが、相手に合わせたアイデア出しは難しいものですね。
 
記事タイトルの「凹んだ時こそ階段を上がっている」とは。
 
仕事がうかく行かなかった場合、しかもそれが命取りになっていない場合は、必ず自分の能力の階段を一段上がるチャンスでもあると思ってきました。これまでのデザイナー経験の中で何段の階段を上がってきたか覚えていませんが、苦悩するたびに、乗り越えて来たことは確かだと思っています。
 
そんなことを続けていると「凹むことって自分に必要なことなんだ」って思えるようになって来ましたね。例えば、人から誉められてばかりいたらどうでしょう?自分の自慢ばかりしている人になるかも。失敗した時に相手のせいにばかりするかも。すべての人が自分の欠点を指摘してくれる良きアドバイザーではありません。自分の耳に入ってくることだけが自分の評価だとは限らないのです。
 
今回の凹みは、年齢とともにだんだん成長のスピードが遅くなってきた自分にとって、とてもありがたい出来事でした。

危険を察知する嗅覚

大げさな記事タイトルですが、とても大切なことです。
 
自分はそれほど神経質ではなく、私生活ではかなりヌケていると自負していますが、こと仕事においては「危険を察知する嗅覚」を磨く努力は惜しみませんでした。フリーランスで長年やっていましたが、明日の保証、来月の保証、来年の保証が全くないわけでして、将来に対する不安はサラリーマンの比ではありません。
 
それでは「危険を察知する嗅覚」とは何か?わかりやすく表現すると「このままだとヤバい」という予感です。たとえば自分の仕事がクライアントが求めるクオリティに達してないのではないか?という不安、このまま放っておくと、カネがもらえないのではないか?という不安。この仕事を断ったら、干されるのではないか?という不安。
 
10年以上フリーランスをやってましたが、そのような不安はほぼ当たっていました。単に気が弱いだけなのかもしれませんが。でも実際にその間に消えて行った同業者もたくさん見ています。自分が生き残って行くためには、常に危険を察知し回避することだと本能的に感じていたのでしょうか。
 
しかし感じるだけでは解決できません。デザインの品質が危ないときは「より良いデザインを」おカネがもらえない危険には「お金を請求する強い心を」この仕事を断ったら干される危険は「なるべく断らない(カラダを鍛える?)」などなど、危険が迫ってからでは対応できない「準備」が必要なのです。心技体とは良く言ったもので、デザイナーもさまざまな部分で自分を鍛えておかないと、長続きできない職業のひとつです。
 
その「危険を察知する嗅覚」は、何も精神論ばかりにあてはまるものではありません。デザインとは「危険を回避する」と同じ作業かもしれません。常に「奇麗に見えなくなる危険性」「意味が通じない危険性」「間違いが起る危険性」がつきまとい、気づかずに作業をすすめると自分が「使えないデザイナー」になりかねません。僕がデザインを進める段階で良く考えるのは常に「選択」を外さないこと。要するに二つ以上のアイデア(手法・引き出し)を持ち、危険な方向に向かわないように舵を取ることです。

小きな失敗、大さな失敗。

小さな失敗を恐れて、人は生きているのだろうか?

自分は「失敗の大小」は、後にわかること。交通事故のように、一瞬にしてその「失敗の大小」が感じられることは別にして、日常生活の中で起こす失敗について、その失敗は大きいのか、小さいのか?おそらくそれは、起こした失敗をリカバーするのに要する苦労により決まると思う。
 
なるべく小さい失敗を繰り返しながら生きてゆこうと思う。自分の力でリカバーできないような失敗は、気をつけていればよっぽど起らないものだ。ただひとつ、注意しなければならないのが、失敗のリカバーは人に委ねなければならないことも多いということ。無理して自分ですべてを解決しようとすると、さらに大きな失敗につながることも多い。
 
小さな失敗をしながら生きることは、大きな失敗を防ぐ。その失敗を大きいと感じなければ、もっと大きな失敗もリカバーできる。これは僕の持論だ。

人を楽しませる仕事

例えば芸人、落語家など、人を楽しませる仕事を職業としている人の話を、インタビュー番組などでずいぶん見たことがある。その中でも印象的なのはアニメ映画の監督が「自分が楽しんで作ることはない。極限まで苦しむ」と語っていたこと。
 
デザイナーは、人を楽しませることができる仕事だと思う。子供の頃、画用紙に絵を描き、自作ですごろくや野球盤のようなゲームを作ってよく遊んだ。絵を描くことは得意だったが、盤上の工夫をおろそかにすると、ゲームが成立しなかったり、一緒に遊んでいる友人から「意味がわからない」「面白くない」とクレームを出されたものだ。改良する場合もあるが、根本的に「つまらない」と気がつくと、改良を放棄したことが多かった気がする。
 
自分が楽しみたいと思って作ったゲーム。確かに作っている時は楽しかった。しかし、一緒に遊んでくれるプレーヤーに「楽しさが伝わらない」ものを作ったのでは、意味が無い。と小学生の僕は学んだ。