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三河の鎌田・深津氏を研究

※この記事は書きかけです。
徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河国深津郷が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家。ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼光流、武田氏流などにもみられる。

【名字】深津
【全国順位】 1,542位
【全国人数】 およそ11,000人(群馬県800人、愛知県4,300人)

徳川家康の自立期に領内三河の一向一揆にくみしていた矢田作十郎の養子が、のちの深津正吉で、父の敗死後、赦されて、矢田を改めて深津としたもの。

  • 中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる「藤原氏」を祖とする。
  • 藤原南家の後裔
  • 家紋は「上り藤に左鎌」
  • 鎌田氏を称していたが、11代鎌田光頼の時、深津氏に改称して初代となる。
  • 藤原重次を経て1563年、深津三郎九郎正次の時「三河一向一揆」で家康に従事したが、佐々木にて討死。
  • 三河渡刈城は城跡は矢作川の洪水によって埋没し、鹿島社、祐蔵寺辺りと云われている。
  • 深津九郎八のいわれ。苦労した末に八(開く)ことが由来。(5代目:深津誠談)
  • 三河の豊田市で「鎌田正清の子孫」を名乗る深津氏の系図では、鎌田正清の子が鎌田光政で、その子が鎌田俊長となっています。
  • 深津正国 朝比奈元長の曾孫良明の五男で深津正貞の娘を室としてに婿に入っています。
  • 水野小左衛門は実在の人物です。恐らく水野の後任町奉行であった深津八郎右衛門正 国が正徳5年に病気で役を免ぜられ、次ぎに奉行村瀬伊左衛門房矩になり印象が薄かったかもしれない。
  • 鎌田政清は遡ると藤原鎌足にたどる。藤原秀郷の流れ。
  • 1601慶長66年・彦坂代官改役、家禄没収→藤沢宿支配代官=深津八九郎
  • 「清和源氏概観」また、武田太郎信義の兄弟から出たものには、逸見(若狭国大飯郡に分る)、平塩、長沢、深津。

 

Kunio Okada(JA2TKO)という人が、「フォト短歌 83・鄙の町・深津家」で、紹介されている。岡田さんは上渡刈に住んでおられる。

〔豊田市渡刈町の起源〕

私が住んでいる渡刈町(少し前までは上渡刈)の由来は下記のように伝えられています。 村名は往古、持統天皇(西暦687~)が三河に行幸されたとき、本村末の原野に鷹狩りし 給ふ、是により創め鷹狩村と称し後世転化して遂に都賀利・登加刈・現今の渡刈と書くに至った。 渡刈は、すなわち鳥狩りの義で万葉集にある、「梓弓末の原野に鳥狩りす、君が弓弦のたゆむをおもえば」 の古歌とともにその聖跡を碑によって伝え、現在の渡刈町の糟目春日神社に現存している。 なお、奈良朝(710~781)中期此の地方を末の原野・上野・緑野と称し”三つ野”の言った。 「古風土記」に、大和武尊東征の時、矢作河畔に多く矢を矧ぐ翁あり、因って矢作川と名付くとある。 此の地当時海水湾入する河口で人呼んで塩満(しおさし)と言う。
・・・以上は、上郷風土記・上郷町誌による。

https://shiro200303.sakura.ne.jp/Togari-jo.html

https://aitisirotoyota.jimdofree.com/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%AE%E5%9F%8E/%E4%B8%8A%E9%83%B7/%E6%B8%A1%E5%88%88%E5%9F%8E/

バレーボール選手「深津英臣」は、同族である可能性がある。

初投稿:2012年6月20日
加筆:2025年6月15日

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