ハイリゲンシュタットの遺書

ハイリゲンシュタットの遺書とは、かの有名なクラシック音楽のマエストロ(巨匠)ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、1802年に家族に綴った手紙を指します。
 
主に体調の不良(難聴)、人間関係への絶望、それらのどん底を味わったベートーヴェンの、苦痛を表す文面。難聴は、彼にとって単なる疾患に留まらない。音楽家として致命的な病状であるが故に、絶望感は計り知れないほど大きかったはず。そのような状況で、光を見出す一行があります。
 
「そのような死から私を引き止めたのはただ芸術」
 
私たちの知っているベートーヴェンの名曲は、ほとんどがこの「ハイリゲンシュタットの遺書」以後に創られたと言っても言い過ぎではありません。「傑作の森」と呼ばれる黄金期は、死のふちより蘇った不屈の魂が生んだ傑作の宝庫です。その後も様々な病に悩まされるベートーヴェンですが、1827年3月にその生涯を閉じるまで、作曲に懸ける意欲は衰えませんでした。
 
私も今年で48歳。56歳で生涯を終えたベートーヴェンの晩年にあたります。彼が私に教えてくれること、それは今携わる仕事を天職と認識し、持てるすべてを捧げなさい。それが「生きる」ということなのだ。
 
「ハイリゲンシュタットの遺書」は決して「死にたい…」というネガティブな意思表示ではなく、それでも生き抜くという強い生命力、創作意欲を私たちに伝えてくれるのではないか。と、私は思う。

人間関係はハイアングルから眺める。

若い頃は考えを述べるたびに、極論主義者だと評されてきました。考えが早々に結論にいたることが多く、このような印象を持たれたのでしょう。ところが、50歳を少し前にした頃から少しずつ考えが変わり、人間性が穏やかになってきました。
 
それは「逆の立場で物事を考える」ようになったから。
 
例えば相手を一人称として人間関係を客観視するようにします。これが意外と難しい。人は自分を主人公にして物語を展開したいものです。具体的には自分も含めた人間関係を、俯瞰視(ふかんし:ハイアングルから眺めたような視点)するような感覚です。
 
そういう感覚で暮らしていますと「怒り」「憎しみ」「嫌い」などの激しいネガティブ感情が消えてゆきました。それらが「怒られている」「憎まれている」「嫌われている」に変換できるからです。

苦悩の音楽家ブラームス

ブラームスは、特にシンフォニーの分野で最も好きな作曲家です。
 
彼の発表した交響曲第一番~四番はどれも傑作で、何度聞いても飽きることはありません。その中でも交響曲第一番は、随所にベートーヴェンの影響を感じさせますが、着手から完成までに20年の歳月を費やしたと言われます。
 
ブラームスの生き様を知ると、自分との共通点を多く見いだすことができます。仕事に厳しく、人付き合いには弱い(本当は自分もこのタイプ)。上手に演奏できない者には「君に必要なのは才能だ」と罵倒しその後「これくらいのことで挫けていては、君の全てが台無しになってしまう」と励ます優しさも備えていたといいます。
 
 

中谷彰宏氏の言葉。

かっこよく見られたいと思ううちは、かっこ悪い。
かっこ悪くてもいいと思う人が、かっこいい。
 
自分の余命を知った人は、限られた財産と時間を、
人のために使うようになる。
 
もっとも相手の心に残る言葉は、
相手の名前を呼ぶことです。
 
相談する人が求めているのは、
アドバイスではなく、聞いてくれることだ。
 
静かなところで大声で話している人に、
歌のうまい人はいない。
 
悪口もイタズラ電話と同じで、人間の知能を低下させます。
ほめる言葉や愛の言葉を常に話している
人の知能はどんどん向上していくのです。
 
草野球でフォアボールを選ぶことほど、
つまらないものはない。
 
才能はお酒と同じ。
時間をかけて腐らせたものが、人を酔わせる。
 
値切ることで自分の評判を値切っている。
 
一番最初に書くものが、
一番エネルギーに満ちているのです。
 
良いこと言うな〜この人は。
 

「プラトンの饗宴」Vol.4

プラトンの饗宴[その4]
 
普段、私たちが目にし、拘っているものとは、人が作り出した小さなルールに基づいている。本当の美に気づいている人など、ほとんど居ないのです。ひとつの方向だけを見て、縛られて生きています。そこから一歩外に出たところに、イデアは存在します。
 
二千年以上前に、このような哲学を説いた先輩がいるのに、なぜ、今の私たちは、その教えを活かせないのでしょう?なお「プラトンの饗宴」に関する記事は、書きかけです。今後考えが深まったらまた追記します。
 

「プラトンの饗宴」Vol.3

プラトンの饗宴[その3]
 
愛を成長させることが大切です。
 
まず肉体の美を愛すること。ひとつの肉体にとらわれず、多数の美を知り、愛しなさい。
次に魂の美を愛すること。美とは見た目だけではなく、心や、行いの美しさを愛しなさい。
さらに様々な知識の美しさを愛しなさい。全部にまたがるような大きな美しさを感じなさい。
そして最後に「美そのもの」に出会うことができる。永遠・不変・絶対の美=美のイデアを知ることができる。それは究極の本質「理想」を求めることに通じる。
普段、私たちが目にし、拘っているものとは、人が作り出した小さなルールに基づいている。本当の美に気づいている人など、ほとんど居ないのです。ひとつの方向だけを見て、縛られて生きています。そこから一歩外に出たところに、イデアは存在します。
 
二千年以上前に、このような哲学を説いた先輩がいるのに、なぜ、今の私たちは、その教えを活かせないのでしょう?

「プラトンの饗宴」Vol.2

プラトンの饗宴[その2]
 
◎哲学「philosophy」とは、知恵を愛すること。
◎賞賛や利益を得る目的からは、本当の愛は産まれない。
◎人は「自分が持っていないものを持っている人」に惹かれる。
◎すべての人は魂をもって、何かを産み出すことができる。
◎愛するとは、誰かと、何かを産み出すことだ。
◎生きることは、何かを産み出し続けることだ。
◎人は無知から知恵(智慧)に向かって生きている。
◎「智慧」とは物事をありのままに把握し、真理を見極めること。
 
人が生まれて死ぬまでを人生と呼びます。人はその人生を、何のために生きるのでしょう。人はなぜ、学び努力するのでしょう。人はみな死を恐れ、不死を望むのでしょうか。
 
簡単に書き出したプラトンの教え。これを何回も読み返すうちに、きっかけを掴めると思いました。

「プラトンの饗宴」Vol.1

プラトンの饗宴[その1]
 
2400年前古代ギリシアの哲学者プラトンにり書かれた「饗宴」は、人間とは何か?生きるとはどういうことかを教えてくれます。人生は、考えても…考えても分からない。それでも、考える続けることが大切だと思います。
 
私がブログに書くことは、私なりに理解したことであって、万人に通じるものではありません。残された人生を有意義に過ごすために、私は考え続けることにしました。すごくややこしくて、難しい感じもするでしょうが、それが…ちょっと違います〜。このようなことを、ぼんやりと頭に描いて生きるだけなのです。人生に深く悩まないために、考えているのです(笑)

中庸という考え。

「中庸(ちゅうよう)」の意味を辞書で調べたら、かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。などと出ます。仏教用語での「中道」も近い感覚です。
 
この「中庸」は僕が2011年あたりから身体の痛みを感じ、鍼灸治療院に通っていた頃に針灸師の藤田先生(パーソナルF)より教えて頂き知りました。僕があまりに仕事に厳しく、常に最良の結果が残せるよう葛藤している様を見て、教えてくださった考えです。
 
「中庸は徳の至れるものなり」
 …なにごとをするにも、やりすぎてはいけない。

 
怠けることを許さず、失敗を恐れ、常に自分を追い込んで、良い結果を出すことに邁進する。ずっとそんな生き方をしてきました。それくらいしないと、自分が満足する仕事を残せない…と自らを虐めてきました。しかし、それには上限がないのです。(完璧主義とは少し異なります。あえて文字にすると最善主義。)
 
今の僕は、仕事における完成度を求める観点とは別に、この「中庸」の心を持つことを意識しています。精進し、努力してなお、出した結果においては一喜一憂はしないことです。
 
また、好きなことをしている時間には、自分に過度なプレッシャーを与えないことです。デザインでも音楽でも、好きだから楽しくやっているのだ。それだけで良いのだと。
 

天台宗の教えから学ぶ

  • 忘己利他(もうこりた…己を忘れて他を利する)
  • 他人を大切にすることこそ、自分を大切にすることになる
  • 和顔愛語(おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接すること)

 
瀬戸内寂聴さんが好きで、この言葉を心に置いています。「幸福な王子」とは少し違う感じです。人のために尽くすなら、まず自分を優先し大切にし、ちゃんと愛してください。それができてこそ、無理せず人を愛すことができます。
 
忘己利他は「自分のことは忘れられるような状況を作って、人のために働く」と、勝手に解釈してます。

言志四録(げんししろく)

佐藤一斎(さとういっさい)
美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。
(1772-1859)
 
言志四録(げんししろく)は四十余年にわたり記した随想録。西郷隆盛の終生の愛読書。人間の生き方、豊かな人生を送るための心構え、政治法律、学問修養、倫理道徳など、まさに多種多様。
 
▼三学戒

少(わか)くして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
 
幼い頃から勉強しておけば、
大人になって良い仕事ができる。
大人になってから更に学べば、
老人になっても力は衰えない。
老年になってまだ学べば、
自分の死後も次の人々に引き継がれていく。

自分の相撲を取る。

あまり相撲には詳しくないが、勝者のインタビューでこの言葉を耳にしたことが多いのではないか?
 
「自分の相撲を取れた」
 
この言葉は案外と深い。己の生き場を知った者の言葉だと思う。
 
自分のストロングポイントに気付かない者には、この印象は生まれないだろう。しかしながら「自分の長所を活かして生きる」ことは簡単なことではない。私の場合、自分の長所は何にでも全力投球し、命を削ったような行動も平気だ。でも周囲ではそれを、迷惑と感じかねない。それほどの日常では無いのだよ。もっと平穏なものだ、毎日は。
 
太った力士は、巨体を活かして小柄で素早い敵を押しつぶす。小兵は巨人の足下を狙う。地味な者はコツコツと精進し、歌が得意な者は土俵甚句で派手に美声を誇るだろう。大切なことは自分の持ち味を活かすことなんだ。今日の1勝に満足してはいけない。相手の弱みに付け込んで勝利を得ても、応援してくれる人に感動はない。
 
自分という存在は、唯一無二。誰にも代わりができないから尊い。呪縛から自我を解き放ち、自分らしい声で、大きな声で主張すればよいと思う。周囲の人を傷つけないようにね〜。難しいけれどできるはずだ。
 
「自分の相撲を取れているか?」を自問する。う〜、インタビュアーがここにいないので答えは夢の中で…笑。おやすみ。

幸福な王子という短編小説を紐解けば…。

 「幸福な王子」というお話は、幼少期に絵本で繰り返し読んだ記憶があります。絵柄などは覚えておりません。最近になってこのお話が「童話」というよりむしろ「短編小説」と位置づけされることを知りました。作者はオスカー・ワイルド(アイルランド・ダブリン出身の詩人・作家)です。
 
 オスカー・ワイルドは私が敬愛する刑事コロンボの「黄金のバックル」という作品で、犯人の女性と被害者(彼女の弟)とのユーモラスな会話で登場することもあり、強く印象に残っていました。その印象通り、このオスカーの短編集におさめられた作品は、皮肉めいた主題に基づき、何か大きなことを語りかけてくるものです。
 
 「幸福な王子」のあらすじについては、この場には記載しません。ぜひ、ご自分でお読み下さい。私がこの日記で語りたいことは、その「幸福な王子」という短編小説をもとにした絵本を、幼少期に読んだということへの感謝です。おそらく私の父親が幼い私にプレゼントしたものと思われる。水彩画・あるいはパステル画風の挿絵に彩られた、数ページの絵本だった。
 
 世の中は間違いだらけで、よそ道に逸れたくもなるもの。それでも信じた道をひたすら進んでいれば、きっと報われる、「間違っていなかった」ことを悟り大きな幸福感に包まれる。
 
 それは、それは、難しい…、ことですね。でも不可能ではない。
ということを発見し、冷たい布団にもぐり込んで寝よ!
  

何かを見て勇気をもらう…

なでしこジャパンのワールドカップ優勝。これを見ていた東北の方々が「勇気をもらった、頑張れる気がして来た」とメッセージを述べておられた。感情が揺れ動く=まさに感動、ということだと思います。なでしこジャパンの場合は、日本人であればいやおうもなく飛び込んできたビッグニュースですが、そうでなくとも自分なりに良いものを探し見つけては感動することもできるはず。
 
目で見、耳で聞き、舌で味わい、肌で感じ。それらを吸収し、自分の生き方や仕事に活かしてゆくこと。それの繰り返しで得られる感覚で、最も尊いと思えるのは「自分の可能性を諦めないこと」に気付くことです。ただ過ぎ去っている時間が、とても意義深い時間へと変化します。
 
「勇気をもらう」という言葉は、苦悩のない幸福の時間からは生まれない言葉でしょう。しかし「勇気をもらった=感動した」という図式が正しいのであれば、苦しむからこそ喜びもあるのだ…とも考えられます。
 

永遠の楽観主義

永遠の楽観主義などという、とめどないキーワードでネット検索してみても、いろいろ引っかかりますね〜。その中でもノベール賞を受賞した日本人化学者の言葉をクリックしてください。この「永遠の楽観主義」は、強いメッセージとして私の心に響きました。
 
私の解釈では、ノーベル賞を受賞するような意義ある発見・発明は、これまで誰もその答えを導き出せなかったような事柄でしょう。想像を絶するような困難なことです。であれば、少しの努力では発見できなくて当然であり、失敗は毎日毎日続くもの。それでも悲観せず諦めず、いつか実を結ぶと信じて続けているからこそ、価値ある発見にたどり着くものだと。
 
まずは自分を信じ、日々精進を怠らず、技術を磨き、人の助言に耳を傾け、あらゆる可能性を模索し、それで結果が得られなくても悲観せず、明日も頑張ってみる。しかもそういうことが好きである。
 
こんな人生を送ってみたいですね。私は少なからず実践できている部分もあると思います。だからノベール賞化学者の言葉は自分への応援メッセージのように感じたのでしょうね。

何年かに一度の開眼。

自分のウイークポイント、弱点、を克服することは、簡単なことではありません。何かをするにつけ、良い結果が伴わなかった場合など、自らに反省を促し、次回は良い結果を出せるように努力します。それは、物事に真面目な性格であればより顕著になったりするでしょう。しかし、なかなか改善しないこともあります。それがいわゆる弱点となり自分につきまとうのです。
 
自分の場合、練習スタジオではまあまあ歌えるのに、ライブになると今ひとつ力を発揮できない。毎回頑張っているのに、なかなか改善しない。まったく失敗というほどハッキリしているわけではないのですが、納得ゆかないことが多い気がします。それは「緊張するからだ」と、ずっと思っていました。確かに普通の人に比べると「ステージ度胸に欠ける」のは自分でも分かっていて、なるべく緊張しないように工夫したつもりでした。
 
で、突然、今日、ちょっと違うのではないか?と気付いたのです。確かに緊張はするけど「あがっている」わけではなく、かなり正気です。たぶん「緊張」が原因ではなく「力(りき)み」が原因なんだと!自分は責任感が強い方で、ライブステージに上がると、「頑張らなくちゃ」「期待に応えなくちゃ」「楽しまなくちゃ」などと、「力(りき)む」傾向が強いのです、きっと。
 
これは以前、友人から指摘されたことがあったのですが、やはり「自分で気付く」ことが大切ですね。自分のことを自分で修正するのは、大変難しく、それは性格を修正するのに近いことかもしれません。でも、弱点(自分の嫌な部分)を直せるのであれば、努力する価値はありそうです。
 
やみくもに「頑張る」だけでは、良い結果は得られない。むしろ過大な「力」は不要な場合もあり、少し力を抜いて、7割くらいの力で物事にあたることも必要なのかも知れませんね。これはソフトバンクホークスの馬原投手のテレビ番組を見て、気付いたことです。
 
今回の気付きが「何年かに一度の開眼」となるかどうか?それは、今後の結果次第です。 

人は向上し続ける。

先日、テレビでプロサッカー選手三浦知良さんのドキュメンタリー番組を見ました。番組の内容には言及しませんが、彼の生き様を知る良い機会になりました。自分の心に響いたキーワードは「人は向上し続ける」「考え方ひとつで全てが変わる」。
 
人は向上し続ける…。
 
言葉にすることは簡単ですが、実践することは非常に困難です。スポーツ選手に限らず、人はあるピーク時点を境に肉体や記憶能力が衰えます。自分のようなデザイナーであっても衰えは実感するものです。しかし「昨日よりも今日、今日よりも明日、もっと向上するのだ」という強い意志を持っていれば、乗り越えられる気分になりました。
 
考え方ひとつで全てが変わる…。
 
これは野球の野村克也さんも同じようなことを言っています。何も考えていない→考えて生きる。一つの考えを信じて生きている→それを変えてみる。その時に新しい何かが始まるのかも知れません。自分の場合「一つの考えを信じて生きている」派でした。三浦知良さんの「人は考え方ひとつ」の言葉は、そんな自分に問いかけた言葉かも知れません。

仕事は自分を幸福にするか。

仕事は自分を幸福にするか?
 
一般的な仕事は金銭収入を伴うので、生活のために仕事をしている人が大多数です。だから「自分はデザインで飯を食っている」などと表現しますね。「自分は会社員で飯を食っている」という表現はありませんので、「職種を指す」言葉です。その反面「ウチの亭主は仕事のことしか頭に無い」「仕事人間」「家庭をかえりみない」など、行き過ぎると周囲から非難されるようです。
 
現代社会では「仕事の失敗=死」という物騒な構図はあまりピンときませんが、例えば戦国時代は「戦での敗北=死」だったでしょう。極端な例では、一族皆殺しという悲惨な敗北もあったと伝え聞きます。このような環境下ではまさに「命がけの仕事」であって、幸福でいるためには「良い仕事の連続」が条件となったはずです。ただし、この時代の仕事は「幸福論」とはほど遠いです。
 
「良い仕事」を維持し続けることは、なかなか難しいものです。偶然ではなく必然の連続です。自分が思うに「ある程度の強い意志(スタイル)」を持っていないとそれは不可能なのではないでしょうか。また、その仕事が好きでないと持続できない気がします。
 
自分の生活サイクルとしては、仕事をしている時間がざっと5割。毎日休み無く12時間働き続けて5割と計算すると、恐ろしい数字です。睡眠時間を除けば、ほぼ仕事にあけくれる人生です。仕事以外の時間(例えばこのブログを書いている行為)ですらも、仕事で役立つよう自分を鍛えている時間ですし。戦国時代の兵士のように「仕事=命」という単純な式ではないにしろ「仕事での充実感=人生の充実感」と考えて生きているようなものです。
 
かなり若い頃から、この式には気付いていました。自分は自分の人生を充実した幸せなものにすべく、修行を積んで来たのです。今でもそれは続いています。
 
仕事で自分を幸福にするためには、自分の好きな仕事を見つけ、そのために出来うる限りの努力をし続け、世の中から喜ばれる「結果」を出すことでしょう。まだまだ「休みたい」「遊びたい」など、邪念が頭をよぎりますがね。自分を励ましながら、頑張ろうと思います。

損と得を逆転させる発想。

数年前から「損と得を逆転させる発想」を持って生きている。
 
これは自分のように「子供を持たない」から生まれた発想かもしれない。もしそうでなければ、話は少し複雑化する。
 
例えば自分が買い物をした場合、値札よりも安い代金で買えるよう、店員にしつこく交渉し、値切ったとする。店では予定通りの利益が得られずロスが生まれる。安く買い物をした自分は、気分が良いだろうか?
 
20万円の品を19万円で手に入れ、その直後に交通事故にあい、死んでしまえば1万円の得は何の価値もない。
 
こうして地道に「得を積み重ねた」人間が、死を迎えた時に1000万円の貯金を残したとする。遺産を手に入れた人間は税などを考慮しなければ1000万円の得をすることになるが、努力無しで得られたた金で幸せに生きられるだろうか?
 
このようなことを考えながら生きている人も稀だと思うのだが、実際生きている中で「損だ得だ」と金勘定をしている人は、人生において本当に得をしているとは考え難い。逆に「自分が損をした」「高い買い物をした」「人の分まで自分が払った」などの場合、必ず相手が得をしているわけだ。それは、その相手が得した金銭を有効に使ってもらえると信じて、自分が幸せな気分になれるもの。
 
例えば自分は高級ブランドの洋服を着たい願望もないし、毎日を贅沢に囲まれて生きていたくもない。自分の好きな仕事をし、HDに録画した刑事コロンボを何度も見返したり、ライブの度に、愛用のギターに新品の弦を張れて、演奏後にバンド仲間とビールを酌み交わすお金があれば十分。友人たちは一見、自分のことを「プチ成功者」。と見るかもしれないが、実際にはかなり質素な生活環境で十分人生を満喫できるのだ。
 
例えば仕事上で自分の信条とも言えること。それはギャラ以下の価値の仕事はしない。むしろ、ギャラを上回る価値のある仕事を延々と続けてゆきたいこと。それは、言い換えれば永遠に「損し続ける」ことでもあり、相手に「得をし続けてもらう」ことなのだと思う。それで得た収入で、自分が幸せに人生を全うできれば、何も言うことはないです。
 

自分のセールスポイントとは?

私のように自分でデザイン事務所を構え、自分を紹介するウェブサイトを自分で作っていれば当然のように自分のセールスポイントは明確にアピールできていると思います。デザイン事務所に勤めている方の場合は、なかなか自分のドメインを取得し個人のウェブサイトを持つということも無いかも知れませんね。
 
自分の場合、一つのウェブ作品をほぼ一人で作ることができる…ということが強みです。ウェブディレクションからフラッシュ、htmlコーディング。どれが苦手ということもないです。いずれの作業も基本は「デザイン感覚重視」ですので。ある程度の文章も書けますし、写真も撮影できます。ロゴも作れます。SEOやCSS、CMSなどデザイン感覚重視でない仕事もある程度無難にこなせるし、ブログのカスタマイズやEC-CUBEの知識も得、今はWPの構造について勉強中です。
 
一昔前はこういう状況を「器用貧乏」などと表現したものですが、今ではその器用さが「一人で作品を作ることができる」と自分で評価しています。野球で言えば「走攻守」を備えている選手が目標です。これは、あくまでも自分のように個人あるいは小さな組織で生き延びるために必要なスタイルです。
 
そのような時には先述のように、自分のウェブを自分で作ってみると良いのかも知れませんね。自分の弱点が見えてくる?自分のセールスポイントが何なのか見えてくる?何れにしても、成長するヒントが見えてくる気がします。

逃げずに闘え。

自分に言い聞かせる言葉。
 
将棋の羽生さんは「例えば二つの選択肢、楽と苦があるとすれば、苦しい道を選べ」と言っています。映画の宮崎駿監督は「人を楽しませる映画を作るということは、苦しみを伴う作業だ」と言っています。自分が好きなベートーベンやゴッホも、生前は決して幸せだったとは言えないでしょう。苦しみの大きさと作品の感動が比例するとは思いませんが、楽をして人を感動させることは難しいのだと実感します。
 
ただしそれは、あくまでも自分に課すものであり、決して他人に求めるものでもありません。自分が考える「逃げずに闘え」とは、自分に与えられた課題に対し自分なりの解釈を加え、妥協することなく最後まで闘えということです。
 
ジョンレノンやベートーベンの作品を聞いていると、分かることがあります。技巧的に優れているというよりも、「自分を表現する圧倒的な力がある」ということです。最近ではイチロー選手にも同じようなことを感じます。天才と言えばそれまでですが、何でも上手にこなす才能というより、唯一無二であるはずの自分と正面から向き合い、それを表現できるのでしょう。

長く続けた者の勝ち。

何年もの間、デザインやもの創りに関わってくると、だんだん自分のデザインスタイルが確立してきます。それは必要なことでもあるし、自分らしい仕事になってゆくために大事です。しかし、ある時ふとそれが素晴らしいことではない気がすることがあります。ウェブデザインなどで、他者の素晴らしい作品を見たとき、自分のこれまでの作品が稚拙に思える瞬間もあります。少し自信を喪失している状況なのかもしれないけれど、それがそうとも言いきれないのです。
 
それは、ずっと自分の信じる道を歩み続けていると、先に進んでいることが惰性のように感じたり、進んでいる速度や方向を見失ったりするのではないかと思います。さらには、気付かないうちに前進するスピードが増して、少しでもスピードが落ちると自分がダメになったように錯覚したりします。
 
そんな時は、思い切って止まったり、人に道を尋ねてみるのも良いかも。マラソンランナーならそのレースはもうリタイヤです。でもこの仕事はそれほど白熱したレースばかりではない気がしますね。止まったり休んだりした時、その過ごし方次第では、次に違う生き方ができるもの。
 
自分はこれまで25年間走り続けてきました。いまでも効率よく走れる走法はできないし、いつまで走るのか考えたこともないです。ま、これからは止まったり、ゆっくり歩いたりしながら進もうかな。でも、長く歩き続けるには、やはり楽しい歩き方を見つけないとね~…難しい気がします。
 
この不景気の中、仕事を続けられなくなった同業者も多いとは思いますが、引退勧告のない職業ですから、長く続けた者の勝ちです。これから、新しい作風が生まれるかもしれないし。いろいろ勉強しよ~っと。

トップランナーの言葉

先日、私用で東京に出向きました。趣味の音楽関係の友人の誕生日のお祝いパーティに出席するため。僕は自分の管理にトコトン弱いタイプで、これまでに数々の失敗を重ねて生きているので、今回は「帰りの飛行機に間に合う!」ということを、最重要課題とし、少し前に羽田空港に到着する計画を立てました。
 
しかし、それが毎回達成できれば数々の失敗は無かったわけで、案の定、今回も空港に2時間半も早く到着し、ひたすら時間を潰すこととなりました。(10時半に羽田発の飛行機に乗るために、9時半に空港に到着しようと試みたが、思ったより早いルートを使えたため、9時過ぎに到着。で、見間違いで、実際の発が11時半だったため)
前日にパーティ~四次会まで参加し、12時間以上飲み続けたため、極度の疲労を感じつつ、切らしたタバコを購入するために40分歩き回り、律儀にホテルで朝食をとったため、お腹もすいていないので、待合椅子で缶ジュースを飲んだり。ちっとも時間が過ぎません。
 
何気に、本屋に立ち寄り「何か本でも読もう」と思い立ちました。
 
活字が苦手なので、断片的に読めるな~と感じたNHKテレビ番組の「トップランナー」の言葉を集めた小さな本を買いました。(本の売れ行きに関わりたくないので、実際に掲載された文言ではなく、あいまいな記憶に基づいて語ります。)
目次があって、そこにトップランナーたちが語った主題のようなものが並んでいて、その職業や、魅力的なキャッチコピーをたどって、ページの前後関係無視で読んでゆきました。
 
その時に目にとまったフィギュアスケートの第一人者が語った言葉。
「フィギュアスケートは美しいことを目指すもの。しかし、自分の持って生まれた容姿は、外国の選手たちと比べ決して美しいものではないかもしれない。でも、もしも、自分が望むものが生来得られていたとしたら、そこには努力するという最も大切な心が生まれなかっただろう。一見とりえの無い自分だが、神様が与えてくれた『スケートを愛する心』に感謝している。そのおかげでひと一倍努力できたから」
 
この(記憶に基づく)数行を読んだ時、心の奥から熱いものが込み上げ、眠気も疲れも吹っ飛んで、目が潤んでしまった。
自分へのアドバイスだと感じました。このところ、自分に自信が持てない時間を過ごすことが多くなっっていて、しかも、もう若くないので、衰えとも闘う日々。でも、そんな暗いトンネルのような心境の中で掴んだものは「出来ることをやるしかない」という、ごく単純な解決策でした。「好きなことを自分なりに一所懸命、時間を使って、コツコツやっていればいいじゃん」という、開き直りのような感覚。で、サボりたい時には休めば良いし、嫌いになったらリタイヤすればいい。
 
でも、本当に好きなことだったら、諦められないんです。結果は死ぬまでわからないんです。「デザインを愛する心」「音楽を愛する心」は、神様が僕にプレゼントしてくれました。「上手にできなくても、好きなんでしょ?最後まで頑張れ!」っていうことなんですね、きっと。

座右の銘から学ぶ

平尾には「居酒屋 初心」という、とても良い店がある。大将や女将の仕事に対する姿勢をかいま見るに、全くもって慢心を感じない。まさに「初心忘るべからず」。
 
この「初心忘るべからず」という言葉は、思ったより重い。なぜならまず「初心」を持っていた人が何人いるのか?という大きな疑問がある。おそらく数十パーセントの人がこの時点で「初心忘るべからず」を座右の銘にできない。
 
自分の場合もすっかりそれにあてはまってしまった。業界に足を踏み入れた頃、もしくは独立しフリーランスになった頃の「初心」は、何であったか?
 
今更ながら、自分の初心をこの場で再定義できるのであれば、「自分らしく生きる、自分らしい仕事をする。結果は後で着いてくる」というようなものだろう。
 
それが「独りよがり」「傲慢」「我がまま」であってはならない。あくまでも商業デザイナーであるという前提だ。

自分に与えるプレッシャー

「やれば出来る」と簡単に言うが、「出来た」という結果があって初めて成立する言葉だ。その反対に「やらなければ出来ない」し、「出来なかったのだから、真剣にやっていなかった」と言われることもあるだろう。
 
数年前より顕著になった傾向で、仕事の打ち合わせの時に「ぜったいイイもの作ります」的な言葉を言ってしまうことがある。でも実際には何の根拠も無く、ただ単に「頑張ります」というニュアンスだ。しかし、その言葉を聞いたクライアントは異常に期待し、「この人に任せておけば絶対大丈夫」のように感じてしまう。
 
仕事が回らない状況が続くので、打ち合わせの後すぐにその仕事を始められるわけではなく、数日あるいは数週間寝かせることになる。そして、提出の記述が迫ってくると、とてもイイものが出来ないような気がしてくるのだ。
 
でも「イイものを作る」と約束したようなカタチになっているので、後悔の念や自信喪失、時間が足りないという物理的な悩みに負けそうになる。
 
最終的には開き直って、どうにでもなれ!ってデザインしているけど、ふとした瞬間、マラソンで言えば40キロ過ぎた感じの時に、ふと、イイものが出来そうな気分が戻ってくるのだ。毎回こんなことを繰り返していたのでは、身も心も消耗するよね。

凹んだ時こそ階段を上がっている

デザイナーとは本当に難しい職業の一つだと思いますね。
 
これまで24年間グラフィックデザイナー、アートディレクター、ウェブデザイナーと、デザイナー人生を歩んできましたが、未だに難しいことの山盛りです。レイアウト一つとっても、決して何が正解か?というものがあるわけでなく、自分なりに正解と思われる選択をし続けないと、きれいに仕上がりません。
 
アートディレクションに至っては、もっと訳が分かりません。「何かかっこイイモン作って?」って感じで頼まれてアイデアを出すこともあります。ほとんどの場合、何となくこんな感じか?って作っていって、もちろんそのアイデアが「正解である」という自信がないままに提出することもあります。「正解」であるか否かは、そのクライアント(あるいは担当)の判断に委ねることになるからです。
 
デザインの世界では「アリ」「ナシ」議論が良く起ります。例えば、このアイデア(レイアウト)はアリだね。といった感じです。先日、とあるクライアントの担当者から間接的に「このアイデアはあり得ない」とこっぴどい評価をいただきました。間接的に聞いた話で、どういう理由で「あり得ない」のかは、教えていただけませんでした。自分で考えるしかないようです。アイデア自体があり得ないものだとは思えませんが、相手の環境を加味すると、少しだけ理解できるような気がします。仕事の内容に関しては明らかにできませんが、相手に合わせたアイデア出しは難しいものですね。
 
記事タイトルの「凹んだ時こそ階段を上がっている」とは。
 
仕事がうかく行かなかった場合、しかもそれが命取りになっていない場合は、必ず自分の能力の階段を一段上がるチャンスでもあると思ってきました。これまでのデザイナー経験の中で何段の階段を上がってきたか覚えていませんが、苦悩するたびに、乗り越えて来たことは確かだと思っています。
 
そんなことを続けていると「凹むことって自分に必要なことなんだ」って思えるようになって来ましたね。例えば、人から誉められてばかりいたらどうでしょう?自分の自慢ばかりしている人になるかも。失敗した時に相手のせいにばかりするかも。すべての人が自分の欠点を指摘してくれる良きアドバイザーではありません。自分の耳に入ってくることだけが自分の評価だとは限らないのです。
 
今回の凹みは、年齢とともにだんだん成長のスピードが遅くなってきた自分にとって、とてもありがたい出来事でした。

小きな失敗、大さな失敗。

小さな失敗を恐れて、人は生きているのだろうか?

自分は「失敗の大小」は、後にわかること。交通事故のように、一瞬にしてその「失敗の大小」が感じられることは別にして、日常生活の中で起こす失敗について、その失敗は大きいのか、小さいのか?おそらくそれは、起こした失敗をリカバーするのに要する苦労により決まると思う。
 
なるべく小さい失敗を繰り返しながら生きてゆこうと思う。自分の力でリカバーできないような失敗は、気をつけていればよっぽど起らないものだ。ただひとつ、注意しなければならないのが、失敗のリカバーは人に委ねなければならないことも多いということ。無理して自分ですべてを解決しようとすると、さらに大きな失敗につながることも多い。
 
小さな失敗をしながら生きることは、大きな失敗を防ぐ。その失敗を大きいと感じなければ、もっと大きな失敗もリカバーできる。これは僕の持論だ。