A1明朝体と戯れる。

A1明朝体とは。

モリサワの明朝体フォントです。ファクトのブログの投稿記事は、すべてこのA1明朝体で文字組みされています。本文以外のナビゲーション等はリュウミンR-KLを使用しています。A1明朝体の最大の特徴は、フォントフェイス(一文字の形)が美しいことです。文学や古い広告の味わいを感じます。もっと癖のあるオールド書体もあるでしょうが、私はこのモリサワのA1明朝体が大好きです。

ひらがなが特に美しい。

線が交わる部分が微妙に丸くボケているのも大きな特徴です。仮名は小ぶりで少し太めでボリューム感が出ます。ですので本文に使用する場合は、少し抵抗を感じることもあるでしょう。字間・行間は言うまでもなく、大きなタイトルに使用する場合には、その文言までを吟味したいフォントです。

欧文はCentury Old。

20代後半の東京での修行時代に、事務所の先輩たちからいろいろ教えてもらったことが、今でも自分のデザインの基礎として息づいています。

The Century Old has very beautiful font faces. センチュリー・オールド・スタイルは、タイムズ・ニュー・ロマンやガラモンドと肩を並べる、代表的なローマンフォントだと思います。

フラクタル(幾何学の概念)

ジャスパー・ジョーンズもこの「フラクタル」理論を用いた。
図形の部分と全体が自己相似になっているものなどをいう。
多くの人がこの「フラクタル」に安定感・心地良さを感じるという。
 

  • フランスの数学者ブノワ・マンデルブロ が導入した幾何学の概念。
  • 図形の部分と全体が自己相似になっている
  • 樹木の枝分かれはフラクタル構造
  • 血管の分岐構造や腸の内壁などはフラクタル構造

伊藤若冲が好き。

伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は細密な動植物の表現で有名な江戸時代の日本画家です。僕の父親が書道家をしていて、彼の書棚に書家や日本画家の作品集が納められていた。おそらくその中に「伊藤若冲」も有ったのではないか…。(父親は有名な書道家ではなく、師範ではあるが子供に教える程度)
 
これまでの僕の認識では、恐ろしく細密で、ほとんど奇人とも言えるほど描写にこだわった画家。「鶏」「像」「魚」の絵がとても印象的だということ。それらの奇想天外な魅力を十分理解していました。
 
この春にNHK BSプレミアムで放送された「若冲ミラクルワールド」の第2回でも特集された「若冲の水墨画」。今回の「極上美の饗宴」でも、若冲の水墨画にスポットを当てていただき、若冲の世界を堪能させてもらいました。
 
僕が特に注目したのはジョー・プライス氏所蔵の「鶴図屏風」。計12枚の鶴の絵が連なる屏風。潔い筆さばきと、大胆な構図による連作で、その表現力とレイアウトがあまりに素晴らしい…。思わずため息が出ます。1枚の画像を題材として、少し語ってみます。
 
まず、鶴のボディの表現で、卵のような楕円形で全体をつかんでいますが、その中には1本の線も描かれません。尾羽の部分を真っ黒な墨で締めて、細くて固そうな脚が真っ直ぐに降りています。脚の輪郭は正確な点線。それを汚すように地面の曲線が交差している。
 
二羽の鶴は、愛し合っているのか…お互いを意識しているように見える。手前の鶴の顔はほとんどが自分の背中で隠れ、クチバシの位置は明らかに実際よりも離れて描かれている。尾羽の黒は、薄い部分を伴っているが、これは塗り残しで羽の薄い色を表現している。
 
おそらく見える限りでの「迷いが一切ない」。これは他の日本画家にも共通するのかも知れませんが、凄すぎて絶句します。僕は今日、雑誌広告のデザインをしたのですが、何回もやり直してフィニッシュまでたどり着きました。
 
もっと他の絵を見てみたい人は「伊藤若冲 鶴図屏風」で画像検索すると、連作の全てを見ることができます。

「絶対位置」と「相対位置」

CSSを知っている人であれば、「絶対位置=absolute」と「相対位置=relative」について考えた事のある人もいるかもしれません。これまで自分はウェブデザインにおいては、標準的な作業の中で「相対位置」的なレイアウトをしてきました。パーツが重なる危険が少ないからでしょう。
 
仕事における考え方と、このCSSの理論を重ね合わせることを思い立ちました。自分はこれまで、デザイン論としては基本的に「絶対主義」を前提にしていました。これは、「自分の信ずるデザイン」「自分の求めるデザイン」を基本としてスタートし、クライアントや周囲からデザインを褒められても、それはビジネスとして合格点かもしれないけれど、自分の価値観としては別の評価を下すというもの。
 
それはそれで、正しい?というか、仕方ない事ではあるのですが、エスカレートすると「ごり押し」「押しつけ」「独りよがり」な方向に偏る危険もありました。最悪は「空中分解です」。かといって、クライアントに気に入られることを第一に考え過ぎては、仕事が萎縮し、せっかく良い感性を養っても活かすことができません。
 
そこで気付いたのが、この「絶対位置=absolute」と「相対位置=relative」を仕事のスタンスに応用することです。簡単にまとめますと、
仕事のスタート時点において、相手の希望に沿うこと「相対位置=relative」から始めることです。その後の、専門的な分野では自分の経験とスキルを活かして「絶対位置=absolute」、すなわち「主観を重んじる」ことです。
 
CSSにおいて、「absolute」とはかなり乱暴な位置の決定です。始点を「absolute」とすると、その配下の位置はすべて始点に委ねられ、それが間違っていたらすべて間違いとなります。逆に、始点が「relative」の場合(あるいは初期段階でrelativeを宣言した場合)その後の「absolute」は、修正可能なのです。
 
これに気付くのに何十年もかかりました。デザイン暦28年、今自分が心がけることは「始点は相手に合わせなさい」ということ。その上で、自分の持てる発想・技術を活かせば良いのです。そうすれば「独りよがり」にもならず「イエスマン」にもならずに、良い作品が生み出せると感じます。

タミヤのプラモに憧れて…。

先日、ある方と事務所で歓談していた時に、この話を思い出しました。
19歳の頃、タミヤ(田宮模型?現:TAMIYA)のプラモデルのパッケージのようなきれいなデザインの仕事がしたくて、この業界に足を踏み入れました。当時のAD(師匠)から「悪いこと言わないから、やめときな」と釘を刺されましたね。まずタミヤの仕事をしているデザイン事務所に就職すれば良かったとも思うし…。
 
それでもこれまでの仕事の中で最も「タミヤ」の仕事に近かったのは、広告代理店からの依頼で携わったレーサー「星野 一義氏」のホシノインパルのお仕事。写真は、カルソニック・マーチのカラーリング・デモ。下が素材写真で、それを元に、色変換やロゴを乗せたりして、デザインを作ってゆきます。最終的に上の絵のように仕上がったのですが、それは、それは嬉しかったです。
 
今となっては、別段困難な作業でもないのかも知れませんが、当時は、誰に教わらずに、このように、創意工夫して仕事をしていたものです。懐かしいです。そして、この仕事を自分に任せてくれた、プロデューサー熊谷さんへの、感謝を忘れてはいけないと…心から思います。

巨視と微視を持て。

「巨視」とは巨大な視野「微視」とは微細な視野。

これはウェブデザインにはあてはまらない言葉です。ウェブではせいぜい、ブラウズテスト出来ていれば合格ということでしょうか。ウェブデザインを遠くから眺めることもないでしょうし。

巨視と微視を持て。という言葉は自分が東京での修業時代に尊敬していたデザイナーの森下先輩から教えてもらいました。グラフィックデザインは、まず大きな目で全体像をつかみ、出来上がりの方向性を見極め、ほぼ固まった状態で細かい部分を調整します。
 
「巨視」はPCでデザインする場合であれば、小さく表示すれば良いのですが、できれば原寸に近い状態で表示し、自分がデスクから遠く離れて見た方がベターです。目を細めて見ることも効果があると思います。「微視」の方は、テクニックがいろいろあります。黒い四角(あるいは白)の矩形を作って、いろいろマスキングして、隠しながら揃いをチェックしたり、拡大したり縮小したりして、バランスを見ます。文字も1文字単位でアキを調節します。
 
こうして「目を鍛える」ことは、大切なことだと思います。

師弟関係。

自分が20歳で初めて就職した愛知県のデザイン事務所の「チーフデザイナー」であったM氏が、自分のデザイナーとしての最初の師であると思います。初対面の時に「君はどうしてデザイナーになろうを志願したの?」と尋ねられ「プラモのパッケージのデザインがしたい」と答えたら「そりゃ、ウチに就職したら無理だね」って軽くあしらわれたことを覚えています。
 
M氏はディレクターとしてもデザイナーとしても抜群で、カリスマ的な存在でした。毎日毎日M氏と長い時間を一緒に過ごして、少しでも多く吸収しようと必死でした。3年程してM氏は独立し事務所を構え、自分もお願いして一緒に着いて行きました。その事務所でさらに2年M氏のもとで働かせてもらいました。どんなに一緒にいても、このままでは、この人を追い抜くことはおろか、近づくことさえできないと感じたものです。
 
25歳でM氏のもとを離れ、東京に出ました。それからさらに21年後となる今年のこと、突然M氏からメールがあり「F君のウェブの作品集を見たよ、素晴らしいね!」と褒めてくださったのです。自分は「これは、全てMさんから教えてもらったことを、自分なりに追求していったものなんですよ」「今でも当時の教えは忘れていません。本当に感謝しています。」
 
そんな会話があったあと、少しだけですがM氏のウェブデザインの仕事のお手伝いが出来ることになりました。これって、凄いことですよね。20年以上離れていた師匠に、仕事で恩返しができたのです。M氏に限らず、かつてうけたご恩は出来るだけお返ししたい。そんな気持ちが大きくなっています。

ウェブデザインを考え直す。

ウェブデザインについて、もう一度考え直す必要を感じました。今年になって、ひとつ大きな失敗をおかし、それからずっと考えていました。
 
ウェブデザインは広告手段のメディアとして受注することがほとんどで、クライアントの希望にかなう仕事をすることが第一であることは言うまでもありません。それはもっともな考えであると断定しても、作者により出来上がるデザインのテイストや、構成は大きく左右されます。よって、クライアントの要望をすべて自分が達成することも難しいことです。
 
これまで自分が求めてきた仕事は、大まかに見て「訪問者に何を伝えるべきか」を中心に考え、クライアントの要望をそこに上乗せするというものです。この「訪問者に何を伝えるべきか」を考える作業は、時間と体力を要します。しかし、そのポイントをうまく表現できた時には、クライアントから賞賛されます。
 
少し整理しますと、こういうことです。クライアントの望むものを作っているのではなく、訪問者に喜んでもらえるよう作っているのです。それにはまず、対象の特長を良く理解し、好きになり、こんな素晴らしいものがあるので、それを大勢の人に見て知ってもらいたいという願望を叶える仕事をするということです。
 
こういうことを考え始めたのは、ウェブデザインをするようになってからです。もちろんグラフィックデザインでも同じようなことが言えますが、グラフィックはもう少し振り幅が広い感覚です。それは、ウェブデザインが「画一的」になりがちなメディアだと言うことにも関係します。小奇麗にウェブデザインが出来る技術を身に付け、毎日同じような作業にあけくれると、力を感じるデザインが出来なくなるような気がします。そこで、どの仕事でも対象をよく理解し、自分にしか出来ない仕事をするように心がけるようになったのです。
 
失敗した理由は自分のデザインが受け入れられなかったことに起因しますが、上記のようなプロセスが通用しない場合もあったということで、割り切るようにしています。自分なりに失敗を検証し、反省すべき点は直そうと思いましたが、萎縮しすぎて自分を見失ってしまってはいけません。失敗後も、ひとつひとつ新しい仕事に真正面から取り組み、自分らしい仕事ができていると評価しています。

自分の感覚を大切にしたい

かつて、仕事を降りたいと広告代理店に申し出たことがあった。
 
理由は「自分の感覚が狂いそうになって来た」ということ。表現が大げさかもしれないが、その当時の自分にとってはとても重要なことだった。現象としては、デザインを数案提出するように求められ、本命とそうでないものを提出すると、必ず自分の意思とは逆方向に決定が下され、さらに、自分の望まない方向へと進んで行くことが多くなったことだ。
 
それでは、仕事を潤滑に進めるために、自分の意思とは逆方向のデザイン指向で先手を打てるのか?と考えた場合、不可能ではないが、徐々に相手に合わせる仕事をするようになってゆき、自分を見失うことになりかねない。
 
デザイナーは自分の判断力に自信を持ち続けたいものだ。そう心がけていても不調は訪れ、判断力が鈍って仕事に必要以上の時間を要するハメになりがちだ。まずは自分が「これで良いのだ」と筆を置ける(完成とみなす)こと。そして、それは的確な判断でなければ自信へとつながらないだろう。
 
著名なデザイナーの作品を見たり、美術作品を鑑賞したりすることは、その目を鍛える有効な手段となる。そこで見たものは、その作者が「これで良いのだ」と筆を置いたものばかりだ。もしも、自分の作品に「これで良いのだ」と思わなければ、出来る限りの時間を費やしても構わないと思う。
 
話は「仕事を降りたいと広告代理店に申し出た」ことに戻る。自分が「これでは良くない」と思う仕事を要求されることが続けば、前に進めなくなる と、言えないだろうか?おそらく30代前半だったと思うが、その時の自分は、今勇気を出して環境を変えなければ、自分は終わってしまうと感じた。

デザインの著作権

先日、友人からこのような相談がありました。
 
あるグラフィックデザイナーに冊子デザインを発注し、その後、クライアントさんが冊子デザインのデータを他の仕事に流用したいと言うので、お願いしたら断られた。というのです。
 
クライアントさんサイドでは、単にそのデザイナーさんの意地悪的な発想であるとして、デザイナーを交替させることで話が動いたのだそうです。友人が言うには「確かに著作権を守る的な基本理念はあるだろうが、お客さんとしては気軽に流用を許してくれるデザイナーに発注すべきで、そのような人は多く存在する」ということです。
 
このような問題、一昔前に比べ、最近は垣根のない大きな問題になっている気がします。印刷用のデータさえあれば、自前のプリンタやネット印刷業者への発注で、楽々増刷ができてしまいます。
 
自分は現在はフリーのデザイナーですので、あまり厳しいことは言わないようにしています。そうしたところで、自分の利益が増えるということもないからです。でも「著作権に寛容だから仕事を発注したい」と言われたら、引き受けたくないですね。
 
カメラマンさんはどうされているのでしょうか?写真の場合はデザインとは感覚が異なるでしょうね。写真は、最も流用される危険性が高い素材だと思います。
 
おそらく、デザインも写真も、ギャラを支払ったクライアントさんや広告代理店にではなく、制作者(デザイナーやカメラマン)に著作権があると思います。これは法律で保護されたものです。発注者は、それを使用する権利をもっているだけなのです。

デザインって何だっけ?

ウィキペディアによれば日本語では広義において「設計」と訳されている。見た目的には「意匠」とされる。デザインという英語が一般的でない時代には「図案」と呼ばれていた。グラフィックデザイナーの仕事を表すには「図案」と訳されるのが、一番ピンと来る気もするが、私の解釈ではすこし視野が狭いと感じる。
 
私にとってデザインは「図案」以前から始まっている。図案はあくまでも見た目を整える作業が重要だと思われるが、実はその前の段階「情報の整理」が、もっとも大切。情報の整理とは「今から自分が、紙面(グラフィックの場合)において、見る人に何を伝えるのか」を整理することだ。
 
それが自然と出来てしまう人は、天職的デザイナーだと思うが、世に出回っているデザインの多くは、この「情報の整理」で、すでに失敗している気がする。もちろん、自分のグラフィック作品でも、それが上手くいっているとは限らないが。
 
デザイナーという職業には、華やかで感覚的な仕事もあるが、視覚を通じ情報を伝える目的も多い。デザインが上手くなりたいのなら、まず、相手に伝えることが上手な人間になることだ。

タイポグラフィ

 
タイポグラフィという言葉が初耳のグラフィックデザイナーはヤバい(と思います)。別にタイポグラフィという言葉自体は知る必要がないのかも知れませんが、グラフィックデザインの基本は、このタイポグラフィにあると思います。
 
グラフィックデザインにおけるタイポグラフィは、文字のレイアウトと考えると簡単です。昔はカリグラフィと呼ばれる手書きの文字組も多かったのですが、今では、活字や写植を経てデジタルフォントによる文字組が主になってきています。
 
写植の時代にさかのぼると、フィニッシュ的に文字を組むということは、写植屋さんに写植を発注することであり、書体を吟味し、頭の中で出来上がりを想像しながら指定原稿を作って発注していました。それでも指定に失敗し思い通りの文字組が組めなかったことも多く、再指定するかカッターナイフで切り貼りするなど、気に入るまで頑張ったものです。
 
マックでデザインするようになってから、手軽にタイポグラフィを楽しめるようになりました。何回もレイアウトし直したり、フォントを変えてみたり、色まで自由自在。自分のように昔の苦労を知っている者からすれば、タイポグラフィ天国と言っても言い過ぎではないですね。
では、若手のデザイナーが昔のデザイナーよりもタイポグラフィに強くなったかと言うと、頭をかしげます。欧文フォントも数千のように出回っているし、和文フォントも写植時代に負けないくらいバリエーションが豊富(実際には写植時代を大きく上回っているが、質が低いものが多すぎる)。でも、ほれぼれするタイポグラフィを見かけなくなりました。
 
昔のタイポグラフィ年鑑やデザイン年鑑などを改めて見てみると、現在と比較し、圧倒的に「文字間」が詰まった文字組が多いですね。特に明朝体の詰め具合は異常なものがあり、少し痛さも感じます。それでも、コピー(文章)のパワーを視覚化するものとして、とても迫力を感じます。コピーライターとタイポグラファーの共同作業。その結果、初めて説得力のあるキャッチコピーとなるのでしょう。今の流行は「字詰めがゆるい」ことですね。もちろん、僕の修行時代にも「ゆる詰め」という言葉が存在し、実際にゆるめに文字組をすることを心がけていました。でも、現在では「詰めない」という文字組も立派に存在します。
 
話は変わって「ウェブデザイン」ではどうかなると、タイポグラフィ的には絶望感さえ感じます。72dpiでの小さな画像文字の再現力、フラッシュでアンチエイリアスがかかった場合の滲み。テキストに関しては、ウインドウズのブラウズ環境の悪さ。タイポグラフィなど気にしていたらバカバカしいほどです。しかも、制作環境ではアプリケーションソフトの進化により、自動詰めが出来るため、ほとんどのウェブデザイナーは独自の文字組にこだわるという感覚を持っていません。
 
イラストレータ(デザインソフト)を開き、デザイン作業を始める一歩は、まず、真っ白な画面に大きな文字を打ち込むこと。それは仮のフォントに代用されていて、二歩目の作業として、その文章のサイズを大きくし、好きなフォントを選択します。数えきれないほど、この作業を繰り返してきましたが、何度やっても新鮮なものです。和文も欧文も、自分が持っているフォントの中から好きなものをえらび、自由にタイポグラフィを楽しめます。デザイナーは、これを楽しいと思えることが幸せなことです。自分のスタイルを持ちつつ、新しいタイポグラフィにも挑戦したいですね。

仕事は1日寝かせるに限る

デザインには好不調の波があるように思う。でも、調子が良さそうな日って落とし穴が待っているようにも思える。1日でばばっと仕事が捗った日など要注意。そういう場合は、カレーのように1日寝かせて、明日の朝にもう一度眺めた方が良い。

地方で頑張るデザイナーの最大の欠点

地方で頑張るデザイナーの最大の欠点‥それは、勉強を怠ることだ。
 
勉強とは何か?それは、仕事に直結しない知識を得るための時間だ。知識とは何か?アート作品の鑑賞、アーティストを知ること、そしてそれを楽しむと。または、デザイン理論を学んだり、スタイルを学んだりもできる。さらには、デザインの歴史も面白いし、デザインから離れて印刷などの雑学、建築やプロダクトデザイン、音楽、演劇、映画へと勉強心は発展する。
 
25歳で東京へ出た時に、今までの自分のスタンスと全く違っていると気づいたのはこの点だ。仲間とお酒を飲みに行っても全く話に着いて行けないのだ。「好きなAD」「好きな写真家」「好きな画家」「好きな映画監督」一切、何も、考えたことがなかった。これまで田舎でデザイナーをしていた自分は、常に「今そこにある仕事に直面している」だけだった。その時には「そんな知識など仕事において何の役にも立たない」と感じていた。
 
今は、おぼろげながらもこのような結論に達している。
 
「デザイナーは美に対し興味が ある or なし で大きく変わる」
 
要するに、美しい絵が見たい、美しい写真が見たい、そんな単純な欲望が抱けない者には、美しいデザインは出来ないということです。なぜなら、美しい物に興味を抱くことは努力なしで出来るはずだから。美しい物を創るという作業は、その何倍も難しいことなのです。

目に映るものがバイブル

1990年に朗文堂より出版された「evolution International message 1」が未だにデザインバイブルになっていると思える時がある。何も「困った時のパクりネタ」という意味のバイブルではなく、スイス的デザイン感覚をぱぱっと視覚的に再確認できる本として、デスクの脇にいつも置いてあるだけなのだが。
 
コーヒーを飲みながら、タバコを吸いながら、何でも良い。自分の目が行き届く範囲に「目につくデザイン物」を置き、何かの拍子にそれに目が行っているだけで、デザイン感覚は磨かれて行くものだと思う。もしもグラフィックやウェブデザインで「自分の世界を作りたい」のであれば、現実の自分の周りにも「自分の世界」を作ってみたらどうか?
 
僕は25歳~28歳までの3年間を銀座のデザインプロダクションで過ごしたが、そのオフィスもやはり「目に見える世界」、例えば社長室、本棚、ミーティングルーム、先輩のデスク…それぞれがデザイナーの感覚に満ちていた。

エディトリアルデザイン

エディトリアルデザインとは、いわゆるページ物のデザインを指す。書籍のようにページ数が多いものはもちろん、8ページ程度のパンフレットでもエディトリアルデザインと呼べる可能性はある。「表紙」「表4」「トビラ」などの役目を持った特別なページと、それ以外のページで構成される。
 
かつては巨匠、岡本一宣氏の作品などを見ては、エディトリアルデザインの勉強をしたものだ。ただ、巨匠に学ぶだけでなく、世に出回る雑誌、書籍などからもかなり勉強できるのがエディトリアルデザイン。雑誌や書籍を購入する際に、そのデザイン性が高いか否かをまず見極め、汚いデザインの本は買わないのもよい勉強になる。
 
東京での修業時代、僕にデザインを教えてくれた森下先輩は、無類の本好きだった。彼は昼食のレストランや、飲み会の席などで自分の蔵書の自慢や、なかなか手に入らない古本へのこだわりなどを僕に熱く語ってくれた。
 
「田中一光氏」「杉浦康平氏」など日本を代表するグラフィックデザイナーが手がけた本が、僕の自宅の書棚にならんでいる。それらの隙間に「ハーブ・ルバリン」のエロス4冊。1冊はハードカバーで厚さ6,7mm程度の薄いもので、4冊セットで7万円。26歳当時の自分の薄給で良く買えたものだと感心する。たまに手に取って中を見るが、未だにその本当の凄さは自分には理解できない。そこまで自分が達していないのだろう。
 
一冊の本のエディトリアルデザインを引き受けることは、グラフィックデザイナーにとってとてもやりがいのある仕事なのだろう。表紙の装丁から、奥付まで、何もかも自分の好きなようにやってみたいものだ。

自分に与えるプレッシャー

「やれば出来る」と簡単に言うが、「出来た」という結果があって初めて成立する言葉だ。その反対に「やらなければ出来ない」し、「出来なかったのだから、真剣にやっていなかった」と言われることもあるだろう。
 
数年前より顕著になった傾向で、仕事の打ち合わせの時に「ぜったいイイもの作ります」的な言葉を言ってしまうことがある。でも実際には何の根拠も無く、ただ単に「頑張ります」というニュアンスだ。しかし、その言葉を聞いたクライアントは異常に期待し、「この人に任せておけば絶対大丈夫」のように感じてしまう。
 
仕事が回らない状況が続くので、打ち合わせの後すぐにその仕事を始められるわけではなく、数日あるいは数週間寝かせることになる。そして、提出の記述が迫ってくると、とてもイイものが出来ないような気がしてくるのだ。
 
でも「イイものを作る」と約束したようなカタチになっているので、後悔の念や自信喪失、時間が足りないという物理的な悩みに負けそうになる。
 
最終的には開き直って、どうにでもなれ!ってデザインしているけど、ふとした瞬間、マラソンで言えば40キロ過ぎた感じの時に、ふと、イイものが出来そうな気分が戻ってくるのだ。毎回こんなことを繰り返していたのでは、身も心も消耗するよね。

凹んだ時こそ階段を上がっている

デザイナーとは本当に難しい職業の一つだと思いますね。
 
これまで24年間グラフィックデザイナー、アートディレクター、ウェブデザイナーと、デザイナー人生を歩んできましたが、未だに難しいことの山盛りです。レイアウト一つとっても、決して何が正解か?というものがあるわけでなく、自分なりに正解と思われる選択をし続けないと、きれいに仕上がりません。
 
アートディレクションに至っては、もっと訳が分かりません。「何かかっこイイモン作って?」って感じで頼まれてアイデアを出すこともあります。ほとんどの場合、何となくこんな感じか?って作っていって、もちろんそのアイデアが「正解である」という自信がないままに提出することもあります。「正解」であるか否かは、そのクライアント(あるいは担当)の判断に委ねることになるからです。
 
デザインの世界では「アリ」「ナシ」議論が良く起ります。例えば、このアイデア(レイアウト)はアリだね。といった感じです。先日、とあるクライアントの担当者から間接的に「このアイデアはあり得ない」とこっぴどい評価をいただきました。間接的に聞いた話で、どういう理由で「あり得ない」のかは、教えていただけませんでした。自分で考えるしかないようです。アイデア自体があり得ないものだとは思えませんが、相手の環境を加味すると、少しだけ理解できるような気がします。仕事の内容に関しては明らかにできませんが、相手に合わせたアイデア出しは難しいものですね。
 
記事タイトルの「凹んだ時こそ階段を上がっている」とは。
 
仕事がうかく行かなかった場合、しかもそれが命取りになっていない場合は、必ず自分の能力の階段を一段上がるチャンスでもあると思ってきました。これまでのデザイナー経験の中で何段の階段を上がってきたか覚えていませんが、苦悩するたびに、乗り越えて来たことは確かだと思っています。
 
そんなことを続けていると「凹むことって自分に必要なことなんだ」って思えるようになって来ましたね。例えば、人から誉められてばかりいたらどうでしょう?自分の自慢ばかりしている人になるかも。失敗した時に相手のせいにばかりするかも。すべての人が自分の欠点を指摘してくれる良きアドバイザーではありません。自分の耳に入ってくることだけが自分の評価だとは限らないのです。
 
今回の凹みは、年齢とともにだんだん成長のスピードが遅くなってきた自分にとって、とてもありがたい出来事でした。

危険を察知する嗅覚

大げさな記事タイトルですが、とても大切なことです。
 
自分はそれほど神経質ではなく、私生活ではかなりヌケていると自負していますが、こと仕事においては「危険を察知する嗅覚」を磨く努力は惜しみませんでした。フリーランスで長年やっていましたが、明日の保証、来月の保証、来年の保証が全くないわけでして、将来に対する不安はサラリーマンの比ではありません。
 
それでは「危険を察知する嗅覚」とは何か?わかりやすく表現すると「このままだとヤバい」という予感です。たとえば自分の仕事がクライアントが求めるクオリティに達してないのではないか?という不安、このまま放っておくと、カネがもらえないのではないか?という不安。この仕事を断ったら、干されるのではないか?という不安。
 
10年以上フリーランスをやってましたが、そのような不安はほぼ当たっていました。単に気が弱いだけなのかもしれませんが。でも実際にその間に消えて行った同業者もたくさん見ています。自分が生き残って行くためには、常に危険を察知し回避することだと本能的に感じていたのでしょうか。
 
しかし感じるだけでは解決できません。デザインの品質が危ないときは「より良いデザインを」おカネがもらえない危険には「お金を請求する強い心を」この仕事を断ったら干される危険は「なるべく断らない(カラダを鍛える?)」などなど、危険が迫ってからでは対応できない「準備」が必要なのです。心技体とは良く言ったもので、デザイナーもさまざまな部分で自分を鍛えておかないと、長続きできない職業のひとつです。
 
その「危険を察知する嗅覚」は、何も精神論ばかりにあてはまるものではありません。デザインとは「危険を回避する」と同じ作業かもしれません。常に「奇麗に見えなくなる危険性」「意味が通じない危険性」「間違いが起る危険性」がつきまとい、気づかずに作業をすすめると自分が「使えないデザイナー」になりかねません。僕がデザインを進める段階で良く考えるのは常に「選択」を外さないこと。要するに二つ以上のアイデア(手法・引き出し)を持ち、危険な方向に向かわないように舵を取ることです。

制作者が何を考えているか?

デザインを見ていると、制作者が何を考えているかわかる時があります。その延長上には「誰のためにデザインしているのか」まで見えてくることもあります。
 
かつて広告代理店の方から「クライアントのご意向は絶対」だと申しつけられ、反論したこともあります。
 
自分のデザインは、ほとんどのケースで「見てくれる人」を第一に考えます。「見てくれる人」が何かを感じ取ってくれるように考えることは非常に大切です。一見美しく見えるデザインでも「見てくれる人」に何も伝わらない場合があります。それは、まず自分が「見る側」になっていないからでしょう。