皆、大きな矛盾の中で生きている。

3月11日の午後。大河ドラマ篤姫の再放送を見ながら、せこせこ仕事をしていたら、画面がぱっと切り替わり、あの惨事を伝える画面が流れました。その瞬間から、日本という国が大きく揺らぎました。とんでもない事が起きているということは自分にもよく分かりました。目を覆いたくなるような映像が次々に目に飛び込んで来ました。
 
それから1ヶ月が過ぎました。心は痛むばかり…。でも、決して世の批判ばかりをする側には回るまい、と強く念じます。無力だと酷評される与党政府、どさくさ紛れに政局を挽回する野党でさえも、みな虚しさに耐えこの国のために働こうと頑張っている気さえするのです。この状況で国を憂えない国民など一人もいないでしょうね。
 
ただ一つ、私が訴えたいのは「強い者が、強くあって欲しい」と言うこと。抽象的な言い方しかできないけれども、「強い者は、惜しまず力を発揮してほしい」です。なぜか、政治家の方々にはそれを感じません。皆、頑張っているのにね。自分もかなりぐずぐずしているので、彼らを批判することはできません。私は、ゆっくり、じっくりしか動けないけれど、小さな力かも知れないけれど、しっかりと持てる力を伝えて行きたいと思います。

今年は設立20周年。

ファクトグラフィックは1991年に設立されました、2011年で設立20周年を迎えます。
独立・事務所開設、事務所移転などの節々に親しい方を呼んでパーティなどをされる方もいらっしゃるようですが、私の場合はこれまで一切そのようなことはしてきませんでした。今ふりかえってみれば、2001年は21世紀の始まりでもあり独立10周年でもあった。○○周年などは、単なる通過点なのでしょうが、20周年ともなるとよく継続できたものだと、感慨深いものですね。
 
思い返せば20年前、東京都渋谷区でデザイン事務所を開業したとき、一番最初に入って生きた仕事は、ロゴステッカー(カッティングシート)100枚を手作業で切り抜くというもの。デザインの仕事というより内職でね。「こんなことをするために独立したのか?」と、強い葛藤がありました。しかし依頼主は「お金のために我慢する」のではなく、「要望され、それに応える」という基本からまず学べと、教えてくれたのでしょう。
 
その後は「ロゴステッカー」の広告代理店より続々とデザインの仕事を受注できるようになり、忙しいフリーランス生活が続くようになりました。「要望され、それに応える」という基本は今でも持ち続けています。当たり前のようですが、真剣に向き合うと意外と大きな問題なんですよ。

永遠の楽観主義

永遠の楽観主義などという、とめどないキーワードでネット検索してみても、いろいろ引っかかりますね〜。その中でもノベール賞を受賞した日本人化学者の言葉をクリックしてください。この「永遠の楽観主義」は、強いメッセージとして私の心に響きました。
 
私の解釈では、ノーベル賞を受賞するような意義ある発見・発明は、これまで誰もその答えを導き出せなかったような事柄でしょう。想像を絶するような困難なことです。であれば、少しの努力では発見できなくて当然であり、失敗は毎日毎日続くもの。それでも悲観せず諦めず、いつか実を結ぶと信じて続けているからこそ、価値ある発見にたどり着くものだと。
 
まずは自分を信じ、日々精進を怠らず、技術を磨き、人の助言に耳を傾け、あらゆる可能性を模索し、それで結果が得られなくても悲観せず、明日も頑張ってみる。しかもそういうことが好きである。
 
こんな人生を送ってみたいですね。私は少なからず実践できている部分もあると思います。だからノベール賞化学者の言葉は自分への応援メッセージのように感じたのでしょうね。

カレーが記憶力向上に効果。

日曜のお昼、相変わらず仕事が休めずお昼を食べてから出勤しようと、駅前のカレー屋さんに入った。消極的にメニューを選んで水を飲みながらふと目の前の壁を見ると「カレーが記憶力向上に効果」との新聞記事の切り抜きが貼ってあるので、読んでみた。
 
『カレーのスパイス「ターメリック」(ウコン)に含まれる成分から、記憶力を高める化合物を、武蔵野大と米ソーク研究所が合成した。動物実験の段階だが、将来、認知症の治療などに役立つ可能性があるという。』
 
最近記憶力が低下し、新しい歌詞がまったく頭に入らなくて困っていたので「おぉ、これは吉報!」と俄然積極的になり、カレーを一気に完食し、気分よくお店を出たのであった。交差点の手前まで来たら、カレー店のスタッフの女の子が血相をかえて走りよって来て、
 
「お、お客様〜、携帯電話、お忘れです!」
「お、おぉ、すみません、どうもありがとう…」
 
食った直後に効くわけもないのですが。「記憶力」と「注意力」は別物だと自分に言い聞かせ、積極的な気分のまま午後の仕事にいそしんだ〜とさ。めでたし。

何年かに一度の開眼。

自分のウイークポイント、弱点、を克服することは、簡単なことではありません。何かをするにつけ、良い結果が伴わなかった場合など、自らに反省を促し、次回は良い結果を出せるように努力します。それは、物事に真面目な性格であればより顕著になったりするでしょう。しかし、なかなか改善しないこともあります。それがいわゆる弱点となり自分につきまとうのです。
 
自分の場合、練習スタジオではまあまあ歌えるのに、ライブになると今ひとつ力を発揮できない。毎回頑張っているのに、なかなか改善しない。まったく失敗というほどハッキリしているわけではないのですが、納得ゆかないことが多い気がします。それは「緊張するからだ」と、ずっと思っていました。確かに普通の人に比べると「ステージ度胸に欠ける」のは自分でも分かっていて、なるべく緊張しないように工夫したつもりでした。
 
で、突然、今日、ちょっと違うのではないか?と気付いたのです。確かに緊張はするけど「あがっている」わけではなく、かなり正気です。たぶん「緊張」が原因ではなく「力(りき)み」が原因なんだと!自分は責任感が強い方で、ライブステージに上がると、「頑張らなくちゃ」「期待に応えなくちゃ」「楽しまなくちゃ」などと、「力(りき)む」傾向が強いのです、きっと。
 
これは以前、友人から指摘されたことがあったのですが、やはり「自分で気付く」ことが大切ですね。自分のことを自分で修正するのは、大変難しく、それは性格を修正するのに近いことかもしれません。でも、弱点(自分の嫌な部分)を直せるのであれば、努力する価値はありそうです。
 
やみくもに「頑張る」だけでは、良い結果は得られない。むしろ過大な「力」は不要な場合もあり、少し力を抜いて、7割くらいの力で物事にあたることも必要なのかも知れませんね。これはソフトバンクホークスの馬原投手のテレビ番組を見て、気付いたことです。
 
今回の気付きが「何年かに一度の開眼」となるかどうか?それは、今後の結果次第です。 

タミヤのプラモに憧れて…。

先日、ある方と事務所で歓談していた時に、この話を思い出しました。
19歳の頃、タミヤ(田宮模型?現:TAMIYA)のプラモデルのパッケージのようなきれいなデザインの仕事がしたくて、この業界に足を踏み入れました。当時のAD(師匠)から「悪いこと言わないから、やめときな」と釘を刺されましたね。まずタミヤの仕事をしているデザイン事務所に就職すれば良かったとも思うし…。
 
それでもこれまでの仕事の中で最も「タミヤ」の仕事に近かったのは、広告代理店からの依頼で携わったレーサー「星野 一義氏」のホシノインパルのお仕事。写真は、カルソニック・マーチのカラーリング・デモ。下が素材写真で、それを元に、色変換やロゴを乗せたりして、デザインを作ってゆきます。最終的に上の絵のように仕上がったのですが、それは、それは嬉しかったです。
 
今となっては、別段困難な作業でもないのかも知れませんが、当時は、誰に教わらずに、このように、創意工夫して仕事をしていたものです。懐かしいです。そして、この仕事を自分に任せてくれた、プロデューサー熊谷さんへの、感謝を忘れてはいけないと…心から思います。

人は向上し続ける。

先日、テレビでプロサッカー選手三浦知良さんのドキュメンタリー番組を見ました。番組の内容には言及しませんが、彼の生き様を知る良い機会になりました。自分の心に響いたキーワードは「人は向上し続ける」「考え方ひとつで全てが変わる」。
 
人は向上し続ける…。
 
言葉にすることは簡単ですが、実践することは非常に困難です。スポーツ選手に限らず、人はあるピーク時点を境に肉体や記憶能力が衰えます。自分のようなデザイナーであっても衰えは実感するものです。しかし「昨日よりも今日、今日よりも明日、もっと向上するのだ」という強い意志を持っていれば、乗り越えられる気分になりました。
 
考え方ひとつで全てが変わる…。
 
これは野球の野村克也さんも同じようなことを言っています。何も考えていない→考えて生きる。一つの考えを信じて生きている→それを変えてみる。その時に新しい何かが始まるのかも知れません。自分の場合「一つの考えを信じて生きている」派でした。三浦知良さんの「人は考え方ひとつ」の言葉は、そんな自分に問いかけた言葉かも知れません。

2009年は刑事コロンボにハマり。

2009年の最大の関心は「刑事コロンボ」でしたね。決して推理ドラマのファンというわけではありません。「コロンボ」が自分に教えてくれるものは、計り知れないほど大きいのです。自分が好きなコロンボは、床にはいつくばって落ちているゴミを探します。そこに一点でも疑問を感じれば、そこから捜査の道筋ができるのです。仕事も趣味も同じです。常に周囲に興味を持ち、面白い発見を期待します。それは毎日の日常の中でいつも同じ気持ち。そうすれば人生は数倍楽しめると思います。2010年も、ボチボチって感じでがんばります。

仕事は自分を幸福にするか。

仕事は自分を幸福にするか?
 
一般的な仕事は金銭収入を伴うので、生活のために仕事をしている人が大多数です。だから「自分はデザインで飯を食っている」などと表現しますね。「自分は会社員で飯を食っている」という表現はありませんので、「職種を指す」言葉です。その反面「ウチの亭主は仕事のことしか頭に無い」「仕事人間」「家庭をかえりみない」など、行き過ぎると周囲から非難されるようです。
 
現代社会では「仕事の失敗=死」という物騒な構図はあまりピンときませんが、例えば戦国時代は「戦での敗北=死」だったでしょう。極端な例では、一族皆殺しという悲惨な敗北もあったと伝え聞きます。このような環境下ではまさに「命がけの仕事」であって、幸福でいるためには「良い仕事の連続」が条件となったはずです。ただし、この時代の仕事は「幸福論」とはほど遠いです。
 
「良い仕事」を維持し続けることは、なかなか難しいものです。偶然ではなく必然の連続です。自分が思うに「ある程度の強い意志(スタイル)」を持っていないとそれは不可能なのではないでしょうか。また、その仕事が好きでないと持続できない気がします。
 
自分の生活サイクルとしては、仕事をしている時間がざっと5割。毎日休み無く12時間働き続けて5割と計算すると、恐ろしい数字です。睡眠時間を除けば、ほぼ仕事にあけくれる人生です。仕事以外の時間(例えばこのブログを書いている行為)ですらも、仕事で役立つよう自分を鍛えている時間ですし。戦国時代の兵士のように「仕事=命」という単純な式ではないにしろ「仕事での充実感=人生の充実感」と考えて生きているようなものです。
 
かなり若い頃から、この式には気付いていました。自分は自分の人生を充実した幸せなものにすべく、修行を積んで来たのです。今でもそれは続いています。
 
仕事で自分を幸福にするためには、自分の好きな仕事を見つけ、そのために出来うる限りの努力をし続け、世の中から喜ばれる「結果」を出すことでしょう。まだまだ「休みたい」「遊びたい」など、邪念が頭をよぎりますがね。自分を励ましながら、頑張ろうと思います。

損と得を逆転させる発想。

数年前から「損と得を逆転させる発想」を持って生きている。
 
これは自分のように「子供を持たない」から生まれた発想かもしれない。もしそうでなければ、話は少し複雑化する。
 
例えば自分が買い物をした場合、値札よりも安い代金で買えるよう、店員にしつこく交渉し、値切ったとする。店では予定通りの利益が得られずロスが生まれる。安く買い物をした自分は、気分が良いだろうか?
 
20万円の品を19万円で手に入れ、その直後に交通事故にあい、死んでしまえば1万円の得は何の価値もない。
 
こうして地道に「得を積み重ねた」人間が、死を迎えた時に1000万円の貯金を残したとする。遺産を手に入れた人間は税などを考慮しなければ1000万円の得をすることになるが、努力無しで得られたた金で幸せに生きられるだろうか?
 
このようなことを考えながら生きている人も稀だと思うのだが、実際生きている中で「損だ得だ」と金勘定をしている人は、人生において本当に得をしているとは考え難い。逆に「自分が損をした」「高い買い物をした」「人の分まで自分が払った」などの場合、必ず相手が得をしているわけだ。それは、その相手が得した金銭を有効に使ってもらえると信じて、自分が幸せな気分になれるもの。
 
例えば自分は高級ブランドの洋服を着たい願望もないし、毎日を贅沢に囲まれて生きていたくもない。自分の好きな仕事をし、HDに録画した刑事コロンボを何度も見返したり、ライブの度に、愛用のギターに新品の弦を張れて、演奏後にバンド仲間とビールを酌み交わすお金があれば十分。友人たちは一見、自分のことを「プチ成功者」。と見るかもしれないが、実際にはかなり質素な生活環境で十分人生を満喫できるのだ。
 
例えば仕事上で自分の信条とも言えること。それはギャラ以下の価値の仕事はしない。むしろ、ギャラを上回る価値のある仕事を延々と続けてゆきたいこと。それは、言い換えれば永遠に「損し続ける」ことでもあり、相手に「得をし続けてもらう」ことなのだと思う。それで得た収入で、自分が幸せに人生を全うできれば、何も言うことはないです。
 

捨てる神あれば拾う神あり。

仕事でも人間関係でも「捨てる神あれば拾う神あり」。この言葉が身にしみることがあります。ある場面でまるで捨て去られたような心境になる出来事があったとしても、他の場面でも、そうなるとは限りません。自分が同じ人間であっても、環境が変わるだけで、自分の持っている力が役に立つものなのです。これは、多くの人が人生の経験で感じていることなのではないでしょうか?
 
例えば会社の人間関係で「あの人は嫌い、たぶん誰からも好かれないハズ」なんて決めつけても、その人は家庭では愛されるパパなのかも知れませんよ。だから、とある人間関係で心が傷つくようなことが起きても、必要以上に悲観することはありません。自分の考えるとおりに生きていても、他の人間関係では良好に続くことだってあるんです。
 
自分が自分を戒める時、それは上手く行かないことを一方的に相手のせいにして、その人の不幸を願うことです。「あいつは誰とも仲良くできない人間だ」ってね。その考えはいけません。まず自分をよく見つめ、誠実に生き続けること。そして、自分が立ち直れた時に、喧嘩別れした相手の幸せを願えることが大事だと感じます。少なくとも、自分はそうなれるよう努力したい。
 
 

自分のセールスポイントとは?

私のように自分でデザイン事務所を構え、自分を紹介するウェブサイトを自分で作っていれば当然のように自分のセールスポイントは明確にアピールできていると思います。デザイン事務所に勤めている方の場合は、なかなか自分のドメインを取得し個人のウェブサイトを持つということも無いかも知れませんね。
 
自分の場合、一つのウェブ作品をほぼ一人で作ることができる…ということが強みです。ウェブディレクションからフラッシュ、htmlコーディング。どれが苦手ということもないです。いずれの作業も基本は「デザイン感覚重視」ですので。ある程度の文章も書けますし、写真も撮影できます。ロゴも作れます。SEOやCSS、CMSなどデザイン感覚重視でない仕事もある程度無難にこなせるし、ブログのカスタマイズやEC-CUBEの知識も得、今はWPの構造について勉強中です。
 
一昔前はこういう状況を「器用貧乏」などと表現したものですが、今ではその器用さが「一人で作品を作ることができる」と自分で評価しています。野球で言えば「走攻守」を備えている選手が目標です。これは、あくまでも自分のように個人あるいは小さな組織で生き延びるために必要なスタイルです。
 
そのような時には先述のように、自分のウェブを自分で作ってみると良いのかも知れませんね。自分の弱点が見えてくる?自分のセールスポイントが何なのか見えてくる?何れにしても、成長するヒントが見えてくる気がします。

巨視と微視を持て。

「巨視」とは巨大な視野「微視」とは微細な視野。

これはウェブデザインにはあてはまらない言葉です。ウェブではせいぜい、ブラウズテスト出来ていれば合格ということでしょうか。ウェブデザインを遠くから眺めることもないでしょうし。

巨視と微視を持て。という言葉は自分が東京での修業時代に尊敬していたデザイナーの森下先輩から教えてもらいました。グラフィックデザインは、まず大きな目で全体像をつかみ、出来上がりの方向性を見極め、ほぼ固まった状態で細かい部分を調整します。
 
「巨視」はPCでデザインする場合であれば、小さく表示すれば良いのですが、できれば原寸に近い状態で表示し、自分がデスクから遠く離れて見た方がベターです。目を細めて見ることも効果があると思います。「微視」の方は、テクニックがいろいろあります。黒い四角(あるいは白)の矩形を作って、いろいろマスキングして、隠しながら揃いをチェックしたり、拡大したり縮小したりして、バランスを見ます。文字も1文字単位でアキを調節します。
 
こうして「目を鍛える」ことは、大切なことだと思います。

苦悩の音楽家ブラームス

ブラームスは、特にシンフォニーの分野で最も好きな作曲家です。
 
彼の発表した交響曲第一番~四番はどれも傑作で、何度聞いても飽きることはありません。その中でも交響曲第一番は、随所にベートーヴェンの影響を感じさせますが、着手から完成までに20年の歳月を費やしたと言われます。
 
ブラームスの生き様を知ると、自分との共通点を多く見いだすことができます。仕事に厳しく、人付き合いには弱い(本当は自分もこのタイプ)。上手に演奏できない者には「君に必要なのは才能だ」と罵倒しその後「これくらいのことで挫けていては、君の全てが台無しになってしまう」と励ます優しさも備えていたといいます。
 
 

師弟関係。

自分が20歳で初めて就職した愛知県のデザイン事務所の「チーフデザイナー」であったM氏が、自分のデザイナーとしての最初の師であると思います。初対面の時に「君はどうしてデザイナーになろうを志願したの?」と尋ねられ「プラモのパッケージのデザインがしたい」と答えたら「そりゃ、ウチに就職したら無理だね」って軽くあしらわれたことを覚えています。
 
M氏はディレクターとしてもデザイナーとしても抜群で、カリスマ的な存在でした。毎日毎日M氏と長い時間を一緒に過ごして、少しでも多く吸収しようと必死でした。3年程してM氏は独立し事務所を構え、自分もお願いして一緒に着いて行きました。その事務所でさらに2年M氏のもとで働かせてもらいました。どんなに一緒にいても、このままでは、この人を追い抜くことはおろか、近づくことさえできないと感じたものです。
 
25歳でM氏のもとを離れ、東京に出ました。それからさらに21年後となる今年のこと、突然M氏からメールがあり「F君のウェブの作品集を見たよ、素晴らしいね!」と褒めてくださったのです。自分は「これは、全てMさんから教えてもらったことを、自分なりに追求していったものなんですよ」「今でも当時の教えは忘れていません。本当に感謝しています。」
 
そんな会話があったあと、少しだけですがM氏のウェブデザインの仕事のお手伝いが出来ることになりました。これって、凄いことですよね。20年以上離れていた師匠に、仕事で恩返しができたのです。M氏に限らず、かつてうけたご恩は出来るだけお返ししたい。そんな気持ちが大きくなっています。

ウェブデザインを考え直す。

ウェブデザインについて、もう一度考え直す必要を感じました。今年になって、ひとつ大きな失敗をおかし、それからずっと考えていました。
 
ウェブデザインは広告手段のメディアとして受注することがほとんどで、クライアントの希望にかなう仕事をすることが第一であることは言うまでもありません。それはもっともな考えであると断定しても、作者により出来上がるデザインのテイストや、構成は大きく左右されます。よって、クライアントの要望をすべて自分が達成することも難しいことです。
 
これまで自分が求めてきた仕事は、大まかに見て「訪問者に何を伝えるべきか」を中心に考え、クライアントの要望をそこに上乗せするというものです。この「訪問者に何を伝えるべきか」を考える作業は、時間と体力を要します。しかし、そのポイントをうまく表現できた時には、クライアントから賞賛されます。
 
少し整理しますと、こういうことです。クライアントの望むものを作っているのではなく、訪問者に喜んでもらえるよう作っているのです。それにはまず、対象の特長を良く理解し、好きになり、こんな素晴らしいものがあるので、それを大勢の人に見て知ってもらいたいという願望を叶える仕事をするということです。
 
こういうことを考え始めたのは、ウェブデザインをするようになってからです。もちろんグラフィックデザインでも同じようなことが言えますが、グラフィックはもう少し振り幅が広い感覚です。それは、ウェブデザインが「画一的」になりがちなメディアだと言うことにも関係します。小奇麗にウェブデザインが出来る技術を身に付け、毎日同じような作業にあけくれると、力を感じるデザインが出来なくなるような気がします。そこで、どの仕事でも対象をよく理解し、自分にしか出来ない仕事をするように心がけるようになったのです。
 
失敗した理由は自分のデザインが受け入れられなかったことに起因しますが、上記のようなプロセスが通用しない場合もあったということで、割り切るようにしています。自分なりに失敗を検証し、反省すべき点は直そうと思いましたが、萎縮しすぎて自分を見失ってしまってはいけません。失敗後も、ひとつひとつ新しい仕事に真正面から取り組み、自分らしい仕事ができていると評価しています。

逃げずに闘え。

自分に言い聞かせる言葉。
 
将棋の羽生さんは「例えば二つの選択肢、楽と苦があるとすれば、苦しい道を選べ」と言っています。映画の宮崎駿監督は「人を楽しませる映画を作るということは、苦しみを伴う作業だ」と言っています。自分が好きなベートーベンやゴッホも、生前は決して幸せだったとは言えないでしょう。苦しみの大きさと作品の感動が比例するとは思いませんが、楽をして人を感動させることは難しいのだと実感します。
 
ただしそれは、あくまでも自分に課すものであり、決して他人に求めるものでもありません。自分が考える「逃げずに闘え」とは、自分に与えられた課題に対し自分なりの解釈を加え、妥協することなく最後まで闘えということです。
 
ジョンレノンやベートーベンの作品を聞いていると、分かることがあります。技巧的に優れているというよりも、「自分を表現する圧倒的な力がある」ということです。最近ではイチロー選手にも同じようなことを感じます。天才と言えばそれまでですが、何でも上手にこなす才能というより、唯一無二であるはずの自分と正面から向き合い、それを表現できるのでしょう。

長く続けた者の勝ち。

何年もの間、デザインやもの創りに関わってくると、だんだん自分のデザインスタイルが確立してきます。それは必要なことでもあるし、自分らしい仕事になってゆくために大事です。しかし、ある時ふとそれが素晴らしいことではない気がすることがあります。ウェブデザインなどで、他者の素晴らしい作品を見たとき、自分のこれまでの作品が稚拙に思える瞬間もあります。少し自信を喪失している状況なのかもしれないけれど、それがそうとも言いきれないのです。
 
それは、ずっと自分の信じる道を歩み続けていると、先に進んでいることが惰性のように感じたり、進んでいる速度や方向を見失ったりするのではないかと思います。さらには、気付かないうちに前進するスピードが増して、少しでもスピードが落ちると自分がダメになったように錯覚したりします。
 
そんな時は、思い切って止まったり、人に道を尋ねてみるのも良いかも。マラソンランナーならそのレースはもうリタイヤです。でもこの仕事はそれほど白熱したレースばかりではない気がしますね。止まったり休んだりした時、その過ごし方次第では、次に違う生き方ができるもの。
 
自分はこれまで25年間走り続けてきました。いまでも効率よく走れる走法はできないし、いつまで走るのか考えたこともないです。ま、これからは止まったり、ゆっくり歩いたりしながら進もうかな。でも、長く歩き続けるには、やはり楽しい歩き方を見つけないとね~…難しい気がします。
 
この不景気の中、仕事を続けられなくなった同業者も多いとは思いますが、引退勧告のない職業ですから、長く続けた者の勝ちです。これから、新しい作風が生まれるかもしれないし。いろいろ勉強しよ~っと。

デザインの著作権

先日、友人からこのような相談がありました。
 
あるグラフィックデザイナーに冊子デザインを発注し、その後、クライアントさんが冊子デザインのデータを他の仕事に流用したいと言うので、お願いしたら断られた。というのです。
 
クライアントさんサイドでは、単にそのデザイナーさんの意地悪的な発想であるとして、デザイナーを交替させることで話が動いたのだそうです。友人が言うには「確かに著作権を守る的な基本理念はあるだろうが、お客さんとしては気軽に流用を許してくれるデザイナーに発注すべきで、そのような人は多く存在する」ということです。
 
このような問題、一昔前に比べ、最近は垣根のない大きな問題になっている気がします。印刷用のデータさえあれば、自前のプリンタやネット印刷業者への発注で、楽々増刷ができてしまいます。
 
自分は現在はフリーのデザイナーですので、あまり厳しいことは言わないようにしています。そうしたところで、自分の利益が増えるということもないからです。でも「著作権に寛容だから仕事を発注したい」と言われたら、引き受けたくないですね。
 
カメラマンさんはどうされているのでしょうか?写真の場合はデザインとは感覚が異なるでしょうね。写真は、最も流用される危険性が高い素材だと思います。
 
おそらく、デザインも写真も、ギャラを支払ったクライアントさんや広告代理店にではなく、制作者(デザイナーやカメラマン)に著作権があると思います。これは法律で保護されたものです。発注者は、それを使用する権利をもっているだけなのです。

自分の感覚を大切にしたい

かつて、仕事を降りたいと広告代理店に申し出たことがあった。
 
理由は「自分の感覚が狂いそうになって来た」ということ。表現が大げさかもしれないが、その当時の自分にとってはとても重要なことだった。現象としては、デザインを数案提出するように求められ、本命とそうでないものを提出すると、必ず自分の意思とは逆方向に決定が下され、さらに、自分の望まない方向へと進んで行くことが多くなったことだ。
 
それでは、仕事を潤滑に進めるために、自分の意思とは逆方向のデザイン指向で先手を打てるのか?と考えた場合、不可能ではないが、徐々に相手に合わせる仕事をするようになってゆき、自分を見失うことになりかねない。
 
デザイナーは自分の判断力に自信を持ち続けたいものだ。そう心がけていても不調は訪れ、判断力が鈍って仕事に必要以上の時間を要するハメになりがちだ。まずは自分が「これで良いのだ」と筆を置ける(完成とみなす)こと。そして、それは的確な判断でなければ自信へとつながらないだろう。
 
著名なデザイナーの作品を見たり、美術作品を鑑賞したりすることは、その目を鍛える有効な手段となる。そこで見たものは、その作者が「これで良いのだ」と筆を置いたものばかりだ。もしも、自分の作品に「これで良いのだ」と思わなければ、出来る限りの時間を費やしても構わないと思う。
 
話は「仕事を降りたいと広告代理店に申し出た」ことに戻る。自分が「これでは良くない」と思う仕事を要求されることが続けば、前に進めなくなる と、言えないだろうか?おそらく30代前半だったと思うが、その時の自分は、今勇気を出して環境を変えなければ、自分は終わってしまうと感じた。

デザインって何だっけ?

ウィキペディアによれば日本語では広義において「設計」と訳されている。見た目的には「意匠」とされる。デザインという英語が一般的でない時代には「図案」と呼ばれていた。グラフィックデザイナーの仕事を表すには「図案」と訳されるのが、一番ピンと来る気もするが、私の解釈ではすこし視野が狭いと感じる。
 
私にとってデザインは「図案」以前から始まっている。図案はあくまでも見た目を整える作業が重要だと思われるが、実はその前の段階「情報の整理」が、もっとも大切。情報の整理とは「今から自分が、紙面(グラフィックの場合)において、見る人に何を伝えるのか」を整理することだ。
 
それが自然と出来てしまう人は、天職的デザイナーだと思うが、世に出回っているデザインの多くは、この「情報の整理」で、すでに失敗している気がする。もちろん、自分のグラフィック作品でも、それが上手くいっているとは限らないが。
 
デザイナーという職業には、華やかで感覚的な仕事もあるが、視覚を通じ情報を伝える目的も多い。デザインが上手くなりたいのなら、まず、相手に伝えることが上手な人間になることだ。

タイポグラフィ

 
タイポグラフィという言葉が初耳のグラフィックデザイナーはヤバい(と思います)。別にタイポグラフィという言葉自体は知る必要がないのかも知れませんが、グラフィックデザインの基本は、このタイポグラフィにあると思います。
 
グラフィックデザインにおけるタイポグラフィは、文字のレイアウトと考えると簡単です。昔はカリグラフィと呼ばれる手書きの文字組も多かったのですが、今では、活字や写植を経てデジタルフォントによる文字組が主になってきています。
 
写植の時代にさかのぼると、フィニッシュ的に文字を組むということは、写植屋さんに写植を発注することであり、書体を吟味し、頭の中で出来上がりを想像しながら指定原稿を作って発注していました。それでも指定に失敗し思い通りの文字組が組めなかったことも多く、再指定するかカッターナイフで切り貼りするなど、気に入るまで頑張ったものです。
 
マックでデザインするようになってから、手軽にタイポグラフィを楽しめるようになりました。何回もレイアウトし直したり、フォントを変えてみたり、色まで自由自在。自分のように昔の苦労を知っている者からすれば、タイポグラフィ天国と言っても言い過ぎではないですね。
では、若手のデザイナーが昔のデザイナーよりもタイポグラフィに強くなったかと言うと、頭をかしげます。欧文フォントも数千のように出回っているし、和文フォントも写植時代に負けないくらいバリエーションが豊富(実際には写植時代を大きく上回っているが、質が低いものが多すぎる)。でも、ほれぼれするタイポグラフィを見かけなくなりました。
 
昔のタイポグラフィ年鑑やデザイン年鑑などを改めて見てみると、現在と比較し、圧倒的に「文字間」が詰まった文字組が多いですね。特に明朝体の詰め具合は異常なものがあり、少し痛さも感じます。それでも、コピー(文章)のパワーを視覚化するものとして、とても迫力を感じます。コピーライターとタイポグラファーの共同作業。その結果、初めて説得力のあるキャッチコピーとなるのでしょう。今の流行は「字詰めがゆるい」ことですね。もちろん、僕の修行時代にも「ゆる詰め」という言葉が存在し、実際にゆるめに文字組をすることを心がけていました。でも、現在では「詰めない」という文字組も立派に存在します。
 
話は変わって「ウェブデザイン」ではどうかなると、タイポグラフィ的には絶望感さえ感じます。72dpiでの小さな画像文字の再現力、フラッシュでアンチエイリアスがかかった場合の滲み。テキストに関しては、ウインドウズのブラウズ環境の悪さ。タイポグラフィなど気にしていたらバカバカしいほどです。しかも、制作環境ではアプリケーションソフトの進化により、自動詰めが出来るため、ほとんどのウェブデザイナーは独自の文字組にこだわるという感覚を持っていません。
 
イラストレータ(デザインソフト)を開き、デザイン作業を始める一歩は、まず、真っ白な画面に大きな文字を打ち込むこと。それは仮のフォントに代用されていて、二歩目の作業として、その文章のサイズを大きくし、好きなフォントを選択します。数えきれないほど、この作業を繰り返してきましたが、何度やっても新鮮なものです。和文も欧文も、自分が持っているフォントの中から好きなものをえらび、自由にタイポグラフィを楽しめます。デザイナーは、これを楽しいと思えることが幸せなことです。自分のスタイルを持ちつつ、新しいタイポグラフィにも挑戦したいですね。

トップランナーの言葉

先日、私用で東京に出向きました。趣味の音楽関係の友人の誕生日のお祝いパーティに出席するため。僕は自分の管理にトコトン弱いタイプで、これまでに数々の失敗を重ねて生きているので、今回は「帰りの飛行機に間に合う!」ということを、最重要課題とし、少し前に羽田空港に到着する計画を立てました。
 
しかし、それが毎回達成できれば数々の失敗は無かったわけで、案の定、今回も空港に2時間半も早く到着し、ひたすら時間を潰すこととなりました。(10時半に羽田発の飛行機に乗るために、9時半に空港に到着しようと試みたが、思ったより早いルートを使えたため、9時過ぎに到着。で、見間違いで、実際の発が11時半だったため)
前日にパーティ~四次会まで参加し、12時間以上飲み続けたため、極度の疲労を感じつつ、切らしたタバコを購入するために40分歩き回り、律儀にホテルで朝食をとったため、お腹もすいていないので、待合椅子で缶ジュースを飲んだり。ちっとも時間が過ぎません。
 
何気に、本屋に立ち寄り「何か本でも読もう」と思い立ちました。
 
活字が苦手なので、断片的に読めるな~と感じたNHKテレビ番組の「トップランナー」の言葉を集めた小さな本を買いました。(本の売れ行きに関わりたくないので、実際に掲載された文言ではなく、あいまいな記憶に基づいて語ります。)
目次があって、そこにトップランナーたちが語った主題のようなものが並んでいて、その職業や、魅力的なキャッチコピーをたどって、ページの前後関係無視で読んでゆきました。
 
その時に目にとまったフィギュアスケートの第一人者が語った言葉。
「フィギュアスケートは美しいことを目指すもの。しかし、自分の持って生まれた容姿は、外国の選手たちと比べ決して美しいものではないかもしれない。でも、もしも、自分が望むものが生来得られていたとしたら、そこには努力するという最も大切な心が生まれなかっただろう。一見とりえの無い自分だが、神様が与えてくれた『スケートを愛する心』に感謝している。そのおかげでひと一倍努力できたから」
 
この(記憶に基づく)数行を読んだ時、心の奥から熱いものが込み上げ、眠気も疲れも吹っ飛んで、目が潤んでしまった。
自分へのアドバイスだと感じました。このところ、自分に自信が持てない時間を過ごすことが多くなっっていて、しかも、もう若くないので、衰えとも闘う日々。でも、そんな暗いトンネルのような心境の中で掴んだものは「出来ることをやるしかない」という、ごく単純な解決策でした。「好きなことを自分なりに一所懸命、時間を使って、コツコツやっていればいいじゃん」という、開き直りのような感覚。で、サボりたい時には休めば良いし、嫌いになったらリタイヤすればいい。
 
でも、本当に好きなことだったら、諦められないんです。結果は死ぬまでわからないんです。「デザインを愛する心」「音楽を愛する心」は、神様が僕にプレゼントしてくれました。「上手にできなくても、好きなんでしょ?最後まで頑張れ!」っていうことなんですね、きっと。

仕事は1日寝かせるに限る

デザインには好不調の波があるように思う。でも、調子が良さそうな日って落とし穴が待っているようにも思える。1日でばばっと仕事が捗った日など要注意。そういう場合は、カレーのように1日寝かせて、明日の朝にもう一度眺めた方が良い。

地方で頑張るデザイナーの最大の欠点

地方で頑張るデザイナーの最大の欠点‥それは、勉強を怠ることだ。
 
勉強とは何か?それは、仕事に直結しない知識を得るための時間だ。知識とは何か?アート作品の鑑賞、アーティストを知ること、そしてそれを楽しむと。または、デザイン理論を学んだり、スタイルを学んだりもできる。さらには、デザインの歴史も面白いし、デザインから離れて印刷などの雑学、建築やプロダクトデザイン、音楽、演劇、映画へと勉強心は発展する。
 
25歳で東京へ出た時に、今までの自分のスタンスと全く違っていると気づいたのはこの点だ。仲間とお酒を飲みに行っても全く話に着いて行けないのだ。「好きなAD」「好きな写真家」「好きな画家」「好きな映画監督」一切、何も、考えたことがなかった。これまで田舎でデザイナーをしていた自分は、常に「今そこにある仕事に直面している」だけだった。その時には「そんな知識など仕事において何の役にも立たない」と感じていた。
 
今は、おぼろげながらもこのような結論に達している。
 
「デザイナーは美に対し興味が ある or なし で大きく変わる」
 
要するに、美しい絵が見たい、美しい写真が見たい、そんな単純な欲望が抱けない者には、美しいデザインは出来ないということです。なぜなら、美しい物に興味を抱くことは努力なしで出来るはずだから。美しい物を創るという作業は、その何倍も難しいことなのです。

目に映るものがバイブル

1990年に朗文堂より出版された「evolution International message 1」が未だにデザインバイブルになっていると思える時がある。何も「困った時のパクりネタ」という意味のバイブルではなく、スイス的デザイン感覚をぱぱっと視覚的に再確認できる本として、デスクの脇にいつも置いてあるだけなのだが。
 
コーヒーを飲みながら、タバコを吸いながら、何でも良い。自分の目が行き届く範囲に「目につくデザイン物」を置き、何かの拍子にそれに目が行っているだけで、デザイン感覚は磨かれて行くものだと思う。もしもグラフィックやウェブデザインで「自分の世界を作りたい」のであれば、現実の自分の周りにも「自分の世界」を作ってみたらどうか?
 
僕は25歳~28歳までの3年間を銀座のデザインプロダクションで過ごしたが、そのオフィスもやはり「目に見える世界」、例えば社長室、本棚、ミーティングルーム、先輩のデスク…それぞれがデザイナーの感覚に満ちていた。

エディトリアルデザイン

エディトリアルデザインとは、いわゆるページ物のデザインを指す。書籍のようにページ数が多いものはもちろん、8ページ程度のパンフレットでもエディトリアルデザインと呼べる可能性はある。「表紙」「表4」「トビラ」などの役目を持った特別なページと、それ以外のページで構成される。
 
かつては巨匠、岡本一宣氏の作品などを見ては、エディトリアルデザインの勉強をしたものだ。ただ、巨匠に学ぶだけでなく、世に出回る雑誌、書籍などからもかなり勉強できるのがエディトリアルデザイン。雑誌や書籍を購入する際に、そのデザイン性が高いか否かをまず見極め、汚いデザインの本は買わないのもよい勉強になる。
 
東京での修業時代、僕にデザインを教えてくれた森下先輩は、無類の本好きだった。彼は昼食のレストランや、飲み会の席などで自分の蔵書の自慢や、なかなか手に入らない古本へのこだわりなどを僕に熱く語ってくれた。
 
「田中一光氏」「杉浦康平氏」など日本を代表するグラフィックデザイナーが手がけた本が、僕の自宅の書棚にならんでいる。それらの隙間に「ハーブ・ルバリン」のエロス4冊。1冊はハードカバーで厚さ6,7mm程度の薄いもので、4冊セットで7万円。26歳当時の自分の薄給で良く買えたものだと感心する。たまに手に取って中を見るが、未だにその本当の凄さは自分には理解できない。そこまで自分が達していないのだろう。
 
一冊の本のエディトリアルデザインを引き受けることは、グラフィックデザイナーにとってとてもやりがいのある仕事なのだろう。表紙の装丁から、奥付まで、何もかも自分の好きなようにやってみたいものだ。

座右の銘から学ぶ

平尾には「居酒屋 初心」という、とても良い店がある。大将や女将の仕事に対する姿勢をかいま見るに、全くもって慢心を感じない。まさに「初心忘るべからず」。
 
この「初心忘るべからず」という言葉は、思ったより重い。なぜならまず「初心」を持っていた人が何人いるのか?という大きな疑問がある。おそらく数十パーセントの人がこの時点で「初心忘るべからず」を座右の銘にできない。
 
自分の場合もすっかりそれにあてはまってしまった。業界に足を踏み入れた頃、もしくは独立しフリーランスになった頃の「初心」は、何であったか?
 
今更ながら、自分の初心をこの場で再定義できるのであれば、「自分らしく生きる、自分らしい仕事をする。結果は後で着いてくる」というようなものだろう。
 
それが「独りよがり」「傲慢」「我がまま」であってはならない。あくまでも商業デザイナーであるという前提だ。

自分に与えるプレッシャー

「やれば出来る」と簡単に言うが、「出来た」という結果があって初めて成立する言葉だ。その反対に「やらなければ出来ない」し、「出来なかったのだから、真剣にやっていなかった」と言われることもあるだろう。
 
数年前より顕著になった傾向で、仕事の打ち合わせの時に「ぜったいイイもの作ります」的な言葉を言ってしまうことがある。でも実際には何の根拠も無く、ただ単に「頑張ります」というニュアンスだ。しかし、その言葉を聞いたクライアントは異常に期待し、「この人に任せておけば絶対大丈夫」のように感じてしまう。
 
仕事が回らない状況が続くので、打ち合わせの後すぐにその仕事を始められるわけではなく、数日あるいは数週間寝かせることになる。そして、提出の記述が迫ってくると、とてもイイものが出来ないような気がしてくるのだ。
 
でも「イイものを作る」と約束したようなカタチになっているので、後悔の念や自信喪失、時間が足りないという物理的な悩みに負けそうになる。
 
最終的には開き直って、どうにでもなれ!ってデザインしているけど、ふとした瞬間、マラソンで言えば40キロ過ぎた感じの時に、ふと、イイものが出来そうな気分が戻ってくるのだ。毎回こんなことを繰り返していたのでは、身も心も消耗するよね。

凹んだ時こそ階段を上がっている

デザイナーとは本当に難しい職業の一つだと思いますね。
 
これまで24年間グラフィックデザイナー、アートディレクター、ウェブデザイナーと、デザイナー人生を歩んできましたが、未だに難しいことの山盛りです。レイアウト一つとっても、決して何が正解か?というものがあるわけでなく、自分なりに正解と思われる選択をし続けないと、きれいに仕上がりません。
 
アートディレクションに至っては、もっと訳が分かりません。「何かかっこイイモン作って?」って感じで頼まれてアイデアを出すこともあります。ほとんどの場合、何となくこんな感じか?って作っていって、もちろんそのアイデアが「正解である」という自信がないままに提出することもあります。「正解」であるか否かは、そのクライアント(あるいは担当)の判断に委ねることになるからです。
 
デザインの世界では「アリ」「ナシ」議論が良く起ります。例えば、このアイデア(レイアウト)はアリだね。といった感じです。先日、とあるクライアントの担当者から間接的に「このアイデアはあり得ない」とこっぴどい評価をいただきました。間接的に聞いた話で、どういう理由で「あり得ない」のかは、教えていただけませんでした。自分で考えるしかないようです。アイデア自体があり得ないものだとは思えませんが、相手の環境を加味すると、少しだけ理解できるような気がします。仕事の内容に関しては明らかにできませんが、相手に合わせたアイデア出しは難しいものですね。
 
記事タイトルの「凹んだ時こそ階段を上がっている」とは。
 
仕事がうかく行かなかった場合、しかもそれが命取りになっていない場合は、必ず自分の能力の階段を一段上がるチャンスでもあると思ってきました。これまでのデザイナー経験の中で何段の階段を上がってきたか覚えていませんが、苦悩するたびに、乗り越えて来たことは確かだと思っています。
 
そんなことを続けていると「凹むことって自分に必要なことなんだ」って思えるようになって来ましたね。例えば、人から誉められてばかりいたらどうでしょう?自分の自慢ばかりしている人になるかも。失敗した時に相手のせいにばかりするかも。すべての人が自分の欠点を指摘してくれる良きアドバイザーではありません。自分の耳に入ってくることだけが自分の評価だとは限らないのです。
 
今回の凹みは、年齢とともにだんだん成長のスピードが遅くなってきた自分にとって、とてもありがたい出来事でした。