- ジャスティン・プライス(ヴァネッサ・ファロー)「レクサス・LX ・470」
最後の刑事コロンボ
刑事コロンボの最後の作品(になるだろう※注1)です。前作が1999年であることから、「最後にもう1作」という気持ちが込められた作品であると感じられます。音楽、映像処理などに、2003年という時代背景が出ています。それにしても、事件を解決に導くコロンボの着眼点、そして犯人を徐々に追いつめて行く捜査手法は健在で、集大成的な意気込みもありますね。2003年にレイヴ・プロモーターがポケベルを使っていたかどうかは、疑問ですけど。
輝いていたピーター・フォークの演技
▼これまでの私の「刑事コロンボ論」は、こうでした。
主人公のピーター・フォークは、毎回のドラマのナビゲーター。強烈なキャラクター性を持っているとはいえ、毎度お馴染みの風貌、台詞、立ち振る舞いを貫き、いわば変わらぬ要素を保ち続けます。それにより、毎回の犯人役のキャラクターや犯人の職業、立場などが際立つのです。政治家、学者、音楽家、俳優など、華やかな世界で頂点に登りつめた人物の転落劇が鮮やかに見えてきます。
しかし最終回の「虚飾のオープニング・ナイト」では、そのカラーは抑制されました。そのことにより、コロンボ警部の捜査手法の原点「些細なひっかかりを逃さない」「自分の足で情報を集める」「入念な聞き込み」などが強調されていた気がします。
コロンボ警部の頭は、まだまだ冴えている
随分とお年を召した容貌。地べたを這いつくばって手がかりを得てゆきます。まずは自殺者のお洒落、タイヤの塗料。そして階段を上り、被害者のオフィスで、爪切りと爪を発見。日めくりのページ抜けから関係者の住所を入手、パソコンキーボードの指紋で他殺と断定。ゆっくりと動きながらも、まるで隙のないスリリングな展開を見せます。
容疑者の絞り込みも素早い
最後の秀作
タブロイド記者の不可解な行動、ヴァネッサの元夫のホテル滞在の怪など。どんどん手掛かりを入手し、殺害動機を掴んでゆきます。初期のコロンボ作品のような昔の風情はありませんが、この「虚飾のオープニング・ナイト」は、最後に相応しいよく出来た作品ではないかと、再評価したいです。(2014年6月21日)
若い警察官に「何か」を伝えている気がする…
以前にも増して取り巻きの捜査班と、コロンボ警部の捜査手腕の「差」は大きくなるばかり。コロンボ警部以外の全ての警察官は、「無能集団」と化しています。コロンボ警部引退後のロス警察殺人課の検挙率の低下が心配ですね。初動捜査の場面もかなり面白いと感じました。警部を見て何かを学んで欲しいと願ったのは私だけでしょうか。
最終回のお宅も、オシャレ
二つの邦題
原題は「Columbo Likes the Nightlife」、、これには喝!です。ここで採用した邦題「虚飾のオープニング・ナイト」は日本テレビ版、「殺意のナイトクラブ」というWOWOW版の邦題も存在します。こちらはどうかな?私は「日本テレビ版」に1票。WOWOW版‥ナイトクラブの場所には殺意を感じないので残念。
お疲れさまでした~
庭を見せてくれるご主人
監督:ジェフリー・ライナー
脚本:マイケル・アレイモ
ジャスティン・プライス:マシュー・リス(声:佐久田修)
ヴァネッサ・ファロー:ジェニファー・スカイ(声:斎藤恵理)
リンウッド:ダグラス・ロバーツ(声:後藤哲夫)
ショーン・ジャービス:ジョン・フィネガン
注1:俳優ピーター・フォーク氏は2011年6月23日に他界され、刑事コロンボの最後の作品となりました。
加筆:2020年8月1日
はじめまして。
何年もこのブログを拝見し、 且つ「刑事コロンボ」視聴も何周目か不明な位、放送の都度楽しんで観ています。
今回のNHK BSの放送も今日で終わり、さみしさを感じている中で、これまで長い間感じてきた思いを投稿させていただきます。新シリーズを旧シリーズと比較して批判なさるコメントが多く見受けられ、それはそれで個人の主観ですので、どう感じるかは自由だということは前提でコメントさせていただきます。
「現状維持は衰退である」との言葉もあるように、もし「刑事コロンボ」シリーズが、同じことを漫然と続けていたとしたら、時代にもそぐわずエンターテインメントとして淘汰されていたのではないかと思います。
私自身、令和の現在を社会人として生きている中で、時代に合わせた生き方を迫られる当事者として、それぞれの回は時流に合わせた「試行錯誤」の結果だと思うと単純に批判はできません。旧シリーズと比較なさる方のお気持ちもわかりますが、同じコンテンツを長年にわたって制作する当事者の努力を理解する寛大さも必要ではないかと思い、最終回の本日に僭越ながらコメントさせていただきました。不快な気持ちになられた方にはお詫び申し上げます。
コメントありがとうございます。
刑事コロンボ69作が出揃っている現在では、DVD購入や録画保管などして、新旧どの作品も自由に見られる人も多いでしょう。私もその中の一人です。
私がこのブログを書き始めた頃は、まったく私の私感のままに日記を書いているようなものでした。自分目線での好き嫌いを気ままに書いていました。そのうちに訪問者が増えコメントを残せるようにしたのです。
その過程で自筆の「否定的な評」は、徐々に削除してきました。それらはまだまだ残っていますが今後も加筆修正してまいります。できれば全ての作品に対し、愛のある記事を書きたいと思っています。
ぼろんこさん
丁寧なご返信ありがとうございます。
思いが溢れてコメントしましたが、反応が怖くて今日にいたりました。
私はとにかく「刑事コロンボ 」を愛しており、ぼろんこさんのこのブログも故郷のような存在です。
またどこかで放送されないかと期待しています。
様々なニュースが報道される今、私にとって「刑事コロンボ」は安心して観られる、ずっと流していられる番組です。
これからもこのサイトで色々と楽しみながら勉強させて頂きたいです。
みなさん、ありがとうございます!
同感です。
???の最終回。
殺人というより正当防衛ともとれる、はずみのような出来事。これ殺人か?
コロンボが追い詰めたのは殺人の事後共犯だし、単に死体遺棄罪しか問えないのでは?
水の量が変わったから鯉の数を変えたのが決まり手になりましたが、見た目で少ない方に普通数を合わせるのでは?
テレビの演出の観点からクラブの大画面に埋めた死体を映していたけど、訴訟大国のアメリカではあれが心的トラウマになったということで高額訴訟で市は破産でしょうかね?
最終回としては今一つの内容でしたが、このような内容になってしまったから最終回になったのかな?
などなど疑問だらけの最終回でした。
『刑事コロンボ』シリーズでは、何故、皆さん小ネタについてのコメント投稿が圧倒的多数派なのか、大変恥ずかしながら、今になって私なりにやっと何となくですが理解しました。
1話「殺人処方箋」を除き、無駄や不自然なシーンがやたら多くて気になるのが『刑事コロンボ』シリーズですが、視点に切り替えて各シーンごとにブツ切りに分け、ミニマリズム作品のコラージュとして鑑賞すると、全く異なる世界が見えてきて、無駄や不自然さが気にならず、確かに、とても面白くて別な楽しみ方が何倍にも何十倍にも膨らみますね。
『刑事コロンボ』各話を、レイモンド・カーヴァーが書いた短編小説集や詩集のように、更に分割した微小な違うエピソードの集合体として、あるいは大道具や小道具への拘りなどテーマごとに、割り切って細分化して味わうのは間違いなく賢い鑑賞方法だなあと気付いた次第です。
× 視点に切り替えて
〇 視点を切り替えて
その後、本作のうるさい音楽について言及されている方のコメントを読んで、カーヴァーが書いた短編小説のタイトルを想起しました。
『頼むから静かにしてくれ』(原題:Will You Please Be Quiet, Please?)
先日の再放送で初めて見ました。皆様のコメント大変勉強になりました。
犯人がコロンボにシャツを送るやつ、あれはもしかしたら、
「おっさん、俺の店にそんなかっこで来ないでくれる?ちょっとはおしゃれしてね。」という皮肉では…
でも2003年でレイブって、もう時代遅れですよね。それも二重に暗示しているのでは。
音楽は新しいですね。最高とまでは言えないと感じましたが、テロップっていうんでしょうか?俳優やスタッフの名前が出てくるやつ、あれが浮かび上がってくるような感じの表示で、それにも合っていて良いなと思いました。
犯人たちチャラいと思いました。が、調べると、彼ら俳優は私とほぼ同世代。考えてみたら旧作の犯人たちだって、ほとんどは、ぼろんこさんの言葉を借りれば卑怯卑劣のオンパレードです。年が下のものをやたら批評する年寄りにはなるまいと思っていましたのになりかけている?!気を付けなければ…
こちらのブログに出会う前に見ていた頃は、この作品は現代的すぎて薄っぺらさだけが印象に残って、全く好きではなかったのですが、2年続けての再放送をこちらのブログをチェックしながら観切ってみると、皆さんがコメントで触れられているとおり、構成は旧シリーズを踏襲というか集大成のようで良かったと感じました。とともに、私が初見からこの回がいまいち好きになれなかったのは、コロンボじゃないですが音楽がうるさすぎたのが一因だったと気づきました。ブログでぼろんこさんが度々触れていらっしゃるように、こうして振り返ると旧作は音楽に風情があって、品格が高かったように思います。
犯人像が若くて風格が足りないのは新シリーズではやむ無しとして、今回の犯人役、ヴァネッサのふくよかな丸いバストときゅっとしたウエストには見とれっぱなしでした~(ほとんどキャミ+ヘソ出しだったしね)
ぼろんこ様、素敵な時間をどうもありがとうございました。
構成は旧シリーズを踏襲>私もそう思います。
旧作は音楽に風情があった>確かにそうだとも言えますが、旧作の中にも当時の流行が感じられます。ギル・メレ(Gil Mellé)の音楽は、まぁまぁ「うるさい」です笑
そんなこんなで、時代を感じつつも全作を楽しんで見ようと思います。
最後のコロンボ作品と旧シリーズの違いはストーリーの舞台が大富豪が生活する場所でないということかも。ヴァネッサの住まいはビバリーヒルズですが、その他の場所は大体がダウンタウン近辺ですね。一瞬コロンボ警部がクローザーの一場面に出ているような錯覚をしました。まさにこのエピソードの脚本はマイケル・アライモで、私がコロンボ同様何回も繰り返し見ているお気に入りのクローザー/メジャークライムの脚本も手掛けているわけです。こちらはLAの庶民が暮らす街で起きる犯罪のストーリーで、庶民の暮らしぶり、刑事間のやり取りがうまく描かれていると感心します。ちなみにマイケル・アライモのお父さんは70、80年代多数のTVドラマにゲスト出演し、Star Trek: Deep Space NineではDukat役で知られています。時の流れ、そして世代交代を感じます。
追記ですが、犯人のジャスティン役はLAのレイブ・プロモーターなのになぜにウェールズ出身の俳優にしたのか。このエピソードの2年前にBBCのTV映画、The Lost worldにピーター・フォークと共演した縁からなのかもしれないですね。
遂に最終回。コロンボも白髪になってすっかりおじいちゃんです。この時76歳でしたか。
ただ眼光の鋭さや細かいことに気づくのは流石です。自殺ではなく他殺と断定するのもいつも通りあっという間。容疑者と話すときは既に「貴方がやったね」という顔をしている。
この回は音楽とダンスホールが舞台で騒々しく感じました。しかしあの水槽に死体が隠されていると目星をつけた根拠はなんだったんでしょうか?
刑事コロンボのような殺人事件物は
1.殺害動機が視聴者に分かり易い
2.殺害方法が実行可能
3.犯人の工作が不自然でない
4.犯人を追い詰める証拠がでっちあげでない(コロンボはしばしばでっちあげる)
5.観念して落ちる犯人の心境がよく分かる
などが必要ですが、映像効果や放映時間を考えると中々総てを満たすのは難しいのでしょうね。「こんなこと有り得ない」という放映も何度かありましたが刑事物として出色なのは間違い有りません。
ぼろんこさんの解説や皆さんのコメントでより深く刑事コロンボを楽しめました。
しばらく再放送は(永久にない?)ないと思われますが次回やるときはまたおじゃまします。ぼろんこさん充実したブログ有り難うございました。
コロナ禍の中での「コロンボ」の放映二巡目も完走。この間、またこちらのサイトの投稿者も随分賑やかになられたようで何よりですね。ピーター・フォークを初めとした製作側の事情が何であれ、制作の方は、全てが一新され、こちらも巣籠り生活のおかげ?で21世紀の米国ドラマを視聴する機会が増えた所為か、今回改めて観てみると「コロンボ」が21世紀の米国ドラマとして「生まれ変わった」「第一回」だと思いました。きっと新スタッフも新しい「コロンボ」を作るんだ、と張り切って制作に臨んだのだと信じています。
星雲仮面マシンマンVSゲキレンジャー・ケンのパパかあ…?
ケンパパ(コロンボ)「ほら見ろ⁉特撮ヒーローを引退した奴にはロクなのがおらんのだ!だから、お前がヒーローになるのは大反対だ!」
ケン「ええ…!?マシンマン大先輩、何て事してくれたんだよ…⁉」
星獣戦隊ギンガマン! じゃなかったのですね 銀河万丈さん
わからないことがあります。ジャスティンから貰った派手なシャツを持って、コロンボはただ単にサイズの交換に行っただけだったのでしょうか?その店にたまたまバネッサが居合わせたのは少し短絡的かと思いますが。それとも本当にバネッサの後ををつけていたのでしょうか?
出来過ぎな展開だと思いますが。ジャスティンが警部に派手シャツをプレゼントする必然性もないし、その店でヴァネッサと偶然出くわす確率は相当低いですね。
あの場面はセルフ編集でカットしようかと思いましたが、ジェニファーが出ていたため思い留まっていましたが、NHKさんが既に見事にカットしてくれていました!チョットさみしかったですけどね。
ぱくえもん様
へえー、NHKはラストのフルクレジット以外でも、未だにそんなふうにシーンをカットをしているのですか?
私は最近はBlu-rayしか観ていませんでしたから、まさかまさかのお話で別な意味で驚き、興味深いお話でした。
コロンボを観る手段は、今や色々ありますが、それじゃあ何で観ているかで、ことによると話が嚙み合わない場合もありそうですね。
それでなくても、65話「奇妙な助っ人」に象徴されるように、原語か字幕か吹替のどれで鑑賞するかで、相互に誤解を招きそうになる危険もあるというのに、へえー、そうですか。
ぱくえもんです。
私が最初観たのは 民放BSで、
ブティツクでバネッサと鉢合わせするシーンが確かにありましたが、今回のNHKではカットされていました。予定より容量が小さかったからおかしいな、と思っていたんです。私の環境ではNHKの方が色の深みがあり、気付く前に民放は既に消してしまってました。ただ、民放は日本語放送のみでしたけどね。
あのシーンはどう考えても不自然で、失礼ながら不要だと思っています。でもコロンボに迫られてオドオドするバネッサがとても可愛いんですよね。だから後でホントにサミシかったです。
返信いただき、感謝です。
今回のNHKでの再放送の実態が分かり、すっきりしました。
ありがとうございました。
世界各国のみならず、本国アメリカでも、再放送では、時間などの都合により一部カットすることなど茶飯事ではあるのでしょうね。
でもですね、そもそも論ですが、無駄や矛盾や不自然なシーンがやたら多いのが『刑事コロンボ』で、それも含めて味わい尽くすのが、コロンボ愛ってやつなのと違いますか?(笑)
今回の再放送は、前回と比べ少し変則的な時間での放送でしたから、18時のお尻は決まっていたし、前回は基本カット無しでも今回は番組編成上カットしたシーンが一部に有ったのかなと思いました。
こういうところも、私は今のNHK放映版を信用できず、疑問に思っているのです。
新たなコロンボ・ファンが端役の俳優さんの出演シーンを探す場合、このカットされたシーンに万一登場されていたとして、仮にこのNHKの放映録画だけを頼りに探していたら、それは一生確認できないです。
これで旧作45、新作24、全て見終わりました。
地中探知レーダーとか、留守番電話をトリックに使った旧作から隔日の感ですなあ。
殺人処方箋から一貫していることは、女を共犯にしたらろくなことがない、ってこと。
あと、若い人が犯人だと、名前はジャスティンですね。
何か恨みでもあるのかな、リンクさん。
”殺人処方箋から一貫していることは、女を共犯にしたらろくなことがない、ってこと。”
男の犯人の側に立てば、心情的にはおっっしゃりたいことはわかりますが、
殺人処方箋などの共犯者の女の側からすれば、こんな男と関わっちまったばっかりに犯罪者になっちゃったトホホという感じではないでしょうか?
恋愛関係にある人間を共犯にすること自体卑怯ですし、誰かを引き入れればリスクも増しますよね。
逮捕されないと思うのが甘い…
別れのワインなどの犯人には共感できても殺人処方箋の犯人には共感できないですよね。
銀河万丈バージョンでジャスティンの吹き替えを担当した佐久田修氏は昨日が三回忌でした。
「星雲仮面マシンマン」という特撮番組で好きな女の子を守るために戦うという
大変、解り易い主人公を演じていてジャスティンの犯行動機に被るかな?
逮捕されても、ジャスティンとヴァネッサの愛は水面下でずっと続くような気がしました。
この後味も、同じく男女共犯でも第一作「殺人処方箋」と違うところ。
「地中探知レーダー」はともかくとして、個人的な極論を改めて申せば、「新シリーズ」の中では、結果的に最終話になった、この作品だけが飛び抜けて好きです。「旧シリーズ」の回の多くを上回るほど好き。すっかり年老いたピーター・フォークと若い世代の新鮮な感性との見事な融合に、毎回感動してしまいます。
そして、コロンボの生涯現役な幸せな老後も、じつに羨ましい限りです。
ヴァネッサ(ジェニファー・スカイ)の殺人は、完全に正当防衛ですよね。
曇天や夜間のシーンが多く、ひんやりとした空気が漂い、どこか現代風な北欧の街を想起させる本作。新シリーズの中でも、とりわけ好きな作品です。
便器の水に手を突っ込むことも、死体の口の匂いを嗅ぐことも厭わない、淡々と自分がやるべき仕事をこなしてゆくコロンボ。踊る女の子にも人気者。こんな高齢者になっていけたらいいなあ。
これは、「最終回でございます」と明確に意識した作品とは思えません。チャンスがあれば、まだまだ続編を作りたいと、ピーター・フォーク他、制作者一同願っていたのだと想像します。そんな生涯現役的スタンスもさりげなく、いい感じです。
個人的に唯一心残りなのは、ストーリーの流れ上、今回登場しなかったコロンボの愛犬「DOG」を最後の場面で初めて活躍させる、またと無いチャンスだったのに、という点です。「パイルD-3の壁」の時、他の方とのコメントでのやり取りで、「死体が腐敗すると、おのずとガスが発生し、このガスの腐臭は強力」ということを話題にし、「刑事コロンボ」シリーズ全69作品中、「DOG」や警察犬が捜査に貢献する話が一話もなかったのが残念だというやり取りになったものでした(「シャーロック・ホームズ」シリーズでは、「四人の署名」などのいくつかの作品で、犬が嗅覚を使って大活躍しています)。「地中探知レーダー」より「DOG」が想定外な大活躍をするハプニング?を、一度だけでいいから見たかったです。でも、本作のクールな雰囲気には合いませんかね(笑)。
今回は、原語版と、NHKでは放送しない石田太郎さん吹き替え版で、二回観ました。
石田さんが吹き替えたのは、ピーター・フォークの死を知った後で、最後のお務めとして追悼の意を込めて、コロンボに服装を合わせて収録に臨んだそうです。犯人:ジャスティン・プライスの声を担当した香川照之さんは、少年時代にノヴェライズ全巻を読破した、大のコロンボ・ファンとのことです(Blu-ray全集 付録の解説冊子より)。
「コロンボ」には、制作されなかったストーリーがかなりあるとのことですが、このエピソードの後に、”Hear No Evil”というボツにされたシナリオに基づいた”Columbo’s Last Case”という新作を制作し、「”殺人処方箋”放送40周年記念」として2008年に放送するという構想がユニバーサルにあったのだそうです。
ピーター・フォークもそれこそ「あとひとつだけ」と希望していたそうですが、80歳になる俳優を主演とするドラマの制作にゴーサインを出すネットワークはなく、この構想は陽の目を見ず、フォークも亡くなってしまいました。
「虚飾のオープニング・ナイト」は、レベルが低下してしまった新シリーズの中では内容的には秀作だと思いますが、個人的に白髪のコロンボには正直ちょっと痛々しさも感じてしまいました(といっても、ピーター・フォークは無理に引っ張り出されて出演していたのではなく、金稼ぎのために彼の方から毎回のコロンボの新作制作を要求していた、というのが残念ながら真相のようなのですが)。
海外のファンサイトを見ると、1998年に放送された「復習を抱いて眠れ」を”最終回”としていたほうが、「殺人処方箋」の放送からちょうど30年目にもあたり、キレイな終わり方だったのでは、といった書き込みもありました。
今回も、私が知らない情報+示唆に富んだご指摘をいただき、ありがとうございます。毎回勉強になります。
ピーター・フォークに自ら「刑事コロンボ」シリーズを終了させる意志が無かったのでは、どの道、未完のシリーズにならざるを得なかったということでしょうかね。
私は、当時の若者文化に見事に融和した年老いたコロンボを、作品の完成度とは別に楽しみました。アーティさんが昨年のコメントでおっしゃっていた、「地道な捜査、細かい点を見逃さないこと、部下や同僚、ワーキングクラスの人々への温かいまなざし・・・」といった点を、好ましく観ておりました。
YC-30さんの
>当時の若者文化に見事に融和した年老いたコロンボ
という、コロンボ愛あふれるコメント拝読させていただきました。
先のコメントでピーター・フォークに意地悪なことを書いてしまった私ですが、新シリーズの紆余曲折をへて、このエピソードで彼や制作陣がようやく「新時代のコロンボ」の方向性をつかんだとの感があるだけに、これが最初で最後となったことが残念でなりません。もう少し早く、こうした試みをしてもらえていたら・・・と思ってしまいます。
コロンボがTVに登場した1960年代終わり~70年代初めは、アメリカが国内外の動乱で揺れていましたが、このシリーズはそうした現実を正面から取り上げることは避け、娯楽として安心して身を委ねることができる時間を提供するものだったと思います。当時の若者などは、それを「現実を見ていない」として背を向けそうなものですが、彼らが現実社会で批判の対象としていたであろう白人のエスタブリッシュメントばかりが犯人として登場し、失墜していくさまが、そうした人たちにも刺さったのだろうと想像します。
しかし、そうした設定で毎回違う目新しい犯人を創出していくのは難しいことで、旧シリーズも後半(一時的にせよ)息切れした感を持つのは、その現れといえるかと思います。またピーター・フォークの描くコロンボが人間くさく、悪く言えば大げさな演技になっていく一方で、「殺人処方箋」や初期作品に見られたある種の”鋭さ”がどんどん封印されていったと私が感じるのも、彼がキャラクターの固定化を嫌った結果なのかもしれません。
そして新シリーズは、時代や社会の背景がもはや以前とは違ってしまう一方で、往年のファンは旧シリーズのテイストや「架空のロサンゼルス」の世界観を期待している、という厳しい状況やジレンマに置かれていたと思います。犯人も、以前のような映画で活躍した著名スターを揃えるのが難しくなっていたでしょう。それを変化球的な変更で乗り切ろうとして結局うまくいかなかったのが、いくつかのガッカリなエピソードにつながったのだと思います。
「虚飾のオープニング・ナイト」は、奇をてらったような工夫ではなく、犯罪捜査官としてのコロンボの本質はそのままに、YC-30さんが指摘した、
>曇天や夜間のシーンが多く、ひんやりとした空気が漂い、。。。
という西海岸のイメージに反するような独特の雰囲気、またオープニングやカメラアングルを含めて、思い切った見直しを行い、かつての夢の国としてのLAではなく、現実のLAを舞台とし現代文化と融和した、新世紀のコロンボの方向性を打ち出そうとした作品ではと想像します。そしてそれは、かなりの程度成功したと思います。(ピーター・フォークも、これまでのエピソードでは髪を相当染めていたはずですが、今回はあえて取りやめたのでは、というと想像しすぎでしょうか。)
そして、こうした方向性の模索を10年ほど早く始めてくれていたら、新シリーズの評価もまた違ったものになっていたかもしれない、とも想像してしまうのです。
お気遣い恐縮です。
>こうした方向性の模索を10年ほど早く始めてくれていたら、新シリーズの評価もまた違ったものになっていたかもしれない
心底同感です。
本作は、当時31歳だったジェフリー・ライナー監督の、新鮮な感性と手腕によるところも多きかったのだと思います。
お詫びして訂正いたします。
執筆当時31歳だったのは、脚本家のマイケル・アライモのほうでした。ジェフリー・ライナー監督の生年月日1960年3月22日で、本作の米国での初オンエアが2003年1月30日ですから、本作監督時には42歳くらいでした。
一昨年7月の三浦春馬さんをはじめ、藤木孝さん、竹内結子さん、芦田星さんなど、芸能人の不可解な”自殺”が相次いでいます。
中には本当に自殺だったのか疑わしいケースも。
先月18日にも松田聖子さんと神田正輝さんの長女・神田沙也加さんがホテルから転落死。
沙也加さんは、闇社会や警察権力を動かせる”芸能界のドン”の嫌がらせを受けていたとか。
ところが、沙也加さんは、ドンからの圧力でテレビでの露出が少なかったにも関わらず、母親譲りの歌唱力と自らの努力でミュージカル女優としての評価を高めていた。
婚約者と言われる男優の元恋人とされるアイドル歌手は、ドンのお気に入りだったとか。
恋人を沙也加さんに取られたアイドル歌手はショックで引退危機説も。
いわば”芸能界のドン”の顔に泥を塗ったわけです。
ホテルの窓は、ストッパーを外さない限り最大15㎝しか開かなかった。
沙也加さん自身がスッとッパーを外した形跡はなかった。
しかし、警察は事件性はないと遺族や事務所に説明しています。
コロンボ刑事だったら、15㎝しか開かない窓からの転落死を自殺にはしないはずだ。
ゆっくり丁寧に見ようと大事に録画してとっておいたコロンボシリーズ最終話をやっと見ることができました。またまたコロンボの再放送が始まってしまってこのブログもエンドレスの様相ですね。ブログもちょっとリニューアルされていて面白かったです。
さて、本題の最終回。「ついに21世紀に突入したコロンボ」60年代後半からよく続いたものです。今回はそんな主旨のコメントが多いですね。
最終話はコロンボシリーズの集大成としてよくできた作品だったと思います。
地道な捜査、細かい点を見逃さないこと、部下や同僚、ワーキングクラスの人々への温かいまなざし、犯人への心理的圧迫などコロンボシリーズの特徴がよく出ていました。どなたかもコメントされていましたが、初回の殺人処方箋と同じく主犯と共犯の男女カップルという設定が気に入りました。弱い女性の共犯者。最終回を意識していたのでしょうね。ラストシーンの「それじゃ私は失礼しますよ。」というのは我々視聴者へ向けたセリフだったのかも。
不満な点は最終回にしては犯人が軽量級すぎることです。
新シリーズは原語、日本語字幕で見ているのですが、水槽の魚はなあに?というコロンボの質問に犯人さんは「コイ」と言っていました。カープじゃなくて。
『殺意の斬れ味』に続いて2回目のコメントです。やっと見終わりました。
で、これ、そのひとつ前からずいぶん時間が空いていたんですね。タイトルや俳優のクレジットなどのテイストも余りに違うので「あれ?」と思っていたんですが謎が解けました。言ってみれば、第3シリーズの初め(にして終わり)みたいな感じですかね。
あと、吹き替えの声にも聞き始めてすぐ違和感あったんですが、なるほど石田太郎じゃなかったのか。
それといくつか疑問があります。
リンウッドが庭の木を見に来たという話が出てきますけど、あれはなんのため?
木に登ったら何か見えた、みたいな話かと思いましたが特に何もなくあっさり。単にいつまで生きていたかの確認の上乗せ? よくわからなかったです。
どなたか指摘されてたメガネの件、確認してニンマリしましたww あるんですね、こういうの。
最大の疑問は、水槽の下にどうやって二人で死体を隠したか、ということ。初っ端の方に工事中のシーンが出てきますけど、水槽をこしらえ、防水処理などをし、それに水を入れ鯉を入れる。シロウトじゃできない作業のはずです。
それらの作業より前に、あの水槽ひとつだけに死体を置かないといけないわけで、そのあと工事に入る業者が気がつかないわけはないと思うんですが。クラブのオープンに向けて突貫工事をやってたわけで、死体を入れてなんらかの蓋をしてみたいなことが、あの二人にできるとは思えない。
コメント欄、ざっと読みましたが、どなたかこの件を書かれていたでしょうか。
まぁ、そんな大きな疑問はありますけど、ひとつ前の(個人的には)コロンボ史上最大の駄作に比べれば、皆さん仰っているように初期のテイストも何となくあり、結果的に最終作品としてはよくできていたようには思いました。
BSPでまた放送があるとのこと。今度はあらかじめここで“予習”をしてから見てみようかな。
いつもありがとうございます!
しんぽいさん、木をみに来たと言うシーンですが、リンウッドがその家の敷地からヴァネッサをパパラッチしていたことをコロンボが認識するためだったと解釈しました。
もし筋違いでしたら、すみません。