- 「ぼろんこの名作選」に選ばれています。
- 「パトリック・ウィリアムズ」が音楽を担当した作品。
- ケイ・フリーストン「フォード・マスタング」
- プレゼントされた車「メルセデス・ベンツ・450SL」
マークの出世に対する嫉妬はありますね。さらにマーク(あるいは社)からの自分への評価が思いのほか低いことを思い知ったからか。それで殺人‥とは短絡的すぎるかな。
「秒読みの殺人」は名作です
この「秒読みの殺人」という作品、小学生時代にも間違いなく見ていました。しかしながら、27話「逆転の構図」や32話「忘れられたスター」ほど、強烈な印象は残っておらず、少しノーマーク的な作品でした。今回、再放送を拝見し、見事な作品であることを再認識しました、名作と言って間違いないでしょう。
刑事コロンボ的ストーリー展開を感じる
犯人役の女優や、脇役俳優の良さ云々はさておき、正当派「刑事コロンボ的ストーリー展開」が色濃く、ほとんどのシーンで無駄が無く(注)、密度の濃い作品となっています。コロンボ警部の「落としのテクニック」も、期待通り炸裂してくれています。
トリッシュ・バン・ディーバー
出世欲の強い女性の立場
その反面、心理の描写には鋭いものを感じます。殺意、焦り、意思の強靭さなど、通常の女性では表現しづらい心の揺れを、見事に表現しています。出世欲の強い女性が、組織のトップにのし上がる過程で、仕事を愛する気持ちよりも、成功したい願望が心を支配している様子がうかがえます。周囲の男性たちは、それを好ましく思っていませんでしたね。
それと対比し、同性愛を連想させる描写もありました。女優バレリーとの関係がそれです。初期のコロンボでは扱われなかった題材でしょう。ディレクターの男性が女性的なども、類似した観点です。
終わったら、ほっとすると言うが…
犯行を認める場面で、終わったらほっとすると言うが…その逆だ。と心境を語るケイ。まだ負けたわけじゃない、きっと這い上がってみせる…という意欲をみせました、女は強い。
フィルムチェンジをアリバイに用いたトリック
本作品「秒読みの殺人」では映写時に、フィルムのリールを切り替えるタイミングを画面右隅に表示されるパンチによって、見極める‥というテクニックが焦点となっていて、邦題「秒読みの殺人」に結びつけています。それに対し、21話「意識の下の映像」で映写技師のロジャー・ホワイトは、小銭をリール中心に挟み込んで、それが落ちたら交換のタイミングだと語っています。テレビ局の映写機は最新設備で、小銭を挟めない(カバーで覆われている)タイプでしたね。
映写技師ウォルター:ジェームス・マッキーチン
特に印象的なシーン「エレベータの中で…」
エレベータの天井に見えた「凶器の拳銃」を、犯人ケイが何とかしてそれを下に落とそうとするシーンは、秒読みの殺人で最も印象に残る場面です。身長が低い彼女が必死になっている様子がスリル満点に描かれています。しかも、その行為そのものが、コロンボ警部が仕掛けた罠だと気付かされ、完敗を認めるのも素晴らしかったです。
パトリック・オニール
テレビを修理するクレイマー刑事
バーク刑事
テレビ局のプロデューサー
撮影所(ロケ地)のモニター室では…
ケイはコロンボ警部に追い回され、ヒステリックに叫んでしまいます。メリーゴーラウンドの音楽と目まぐるしく切り替わる画面が印象的ですが、録画して何度も見られる時代となっては、このような強烈なシーンより、静かな場面の方がありがたいですね。同じような意味で「黄金のバックル」の、ジェニーが死体を発見して叫びそうになるシーンも、早送りしたくなります。(笑)
注)テレビ局のモニター室でコロンボ警部が、画面に模様(パターンのようなもの)を写して喜んでいるシーンは、不要でしょうかね~。冒頭で「鼻歌を歌いながら交通事故を起こすシーン」は、無駄と言い難い楽しいシーンでした。→プジョー403
同じ風景画が、最低でも3回出現。
ブログゲストさんから情報をいただき検証しました。レイ・フレミングのマンション、ネルソン・ヘイワードのホテルの風景は同じでした!さらに調査した結果、ケイ・フリーストンのオフィスの窓にも出現しています。
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マークとケイのビーチハウス
マークとケイが暮らすビーチハウスは、数々の刑事コロンボの重要人物が居を構えるマリブビーチにありました。二人が務めるテレビ局のロス支局は、市街中心部近くだと思われ、冒頭シーンでコロンボ警部が愛車プジョーで追突事故を起こす道路はそこからほど近い場所です。
監督:ジェームズ・フローリー
脚本:ロバート・ブリーズ
音楽:パトリック・ウィリアムズ
ケイ・フリーストン:トリッシュ・ヴァン・ディヴァー(声:寺田路恵)
フラナガン:パトリック・オニール(声:黒沢良)
マーク:ローレンス・ラッキンビル(声:森川公也)
バーク刑事:ジェローム・グアルディノ
ウォルター:ジェームス・マッキーチン(声:加藤修)
ルーサー:ロン・リフキン(声:原田一夫)
バレリー:レイニー・カザン(声:大橋芳枝)
プロデューサー:ジョージ・スカフ
ジョナサン:キップ・ジルマン
ウェンディ:スーザン・クレブス
エイムズ:モーガン・アプトン
ピート・クックマン:ドン・イートナー
マッジ:ディー・ティンバーレイク
マッサージ師:H.B.ヘイゲッティ
電気屋:ブルース・カービー(声:杉田俊也)
テレビ局の警備員ー:マイク・ラリー
クリーニング屋:ポール・ウイルソン
加筆:2024年8月29日
昨今の日本の、与野党問わず政治家の醜態をみるにつけ、一度、極力、女性側の価値観と目線で、コメントを試みたい気持ちが強くなりました。
「秒読みの殺人」は、職場での女性の立場やパワーバランスがテーマのひとつとなっており、今日の「Me Too」運動と関連づけて解説することが可能かと思います。このエピソードの主な内容や登場人物の行動が、職場における女性の自己主張、権力構造の不均衡、性別による差別などの問題を反映しているからです。
主人公であるケイは、テレビ業界の重役を目指して懸命に働いている女性です。彼女は、同僚であり恋人でもあったマークが自分を裏切り、彼女の昇進の道を阻んだため、衝動的に彼を殺害します。その後、ケイは事件を隠蔽し、さらに自分のキャリアを守ろうと努力するという展開です。
「Me Too」運動は、特に職場における性的暴力やハラスメント、権力を利用した女性の抑圧を告発する運動です。この運動が焦点を当てるのは、性別による不平等な権力関係と、それが女性にどのような影響を及ぼしているかです。「秒読みの殺人」のケイのキャラクターと彼女の境遇は、「Me Too」運動が指摘するような問題を反映しています。
たとえば、
1. 職場における性差別と権力の不均衡
ケイは、業界で成功を収めるために懸命に努力してきましたが、職場では彼女のキャリアを阻む壁に直面します。恋人であるマークが彼女の昇進を阻害したことで、彼女は怒りと失望を抱き、最終的に犯罪に走ります。これにより、女性が職場で自分のキャリアを守るために戦わなければならない不平等な状況が強調されます。これは、男性中心の権力構造に対抗しようとする女性の苦悩を描いたものと言えます。
2. 性的関係を利用したキャリアの障害
ケイとマークの関係は、恋人でありながらも、職場での権力関係に影響を与えています。彼女は、単なる感情的な裏切りではなく、キャリアを脅かされたことでマークを殺害します。これは、職場において男性が権力を持ち、女性がその中でどう生き抜こうとするかというテーマが、「Me Too」運動で問題視されている職場内のハラスメントや権力の乱用と重なります。
3. ケイの独立した女性像と社会への抵抗
ケイは物語の中で、強く独立した女性として描かれていますが、彼女は社会や職場での男性中心のシステムと戦い続けています。彼女の最終的な行動やセリフ、「私は負けない、戦って生き抜く」という言葉は、まさに「Me Too」運動の精神に通じるものがあります。女性が自分のキャリアを守り、権力の不均衡に抵抗するために立ち向かう姿勢が描かれているのです。
4. 女性の生き方と成功へのプレッシャー
「Me Too」運動は、女性が男性中心の社会で成功するためにどれだけのプレッシャーにさらされ、時に不正な手段に追いやられるかという問題も強調しています。ケイのキャラクターは、自分の地位を守るために犯罪に手を染めますが、それは彼女が直面する社会的なプレッシャーや、成功を求める強い願望が原因です。女性が自分の地位を確立するために戦う姿は、「Me Too」運動の多くの告発とも重なります。
結び
「秒読みの殺人」は、単なる犯罪ドラマではなく、職場における女性の権利や不平等、そして権力構造に対する挑戦をテーマにしています。ケイのキャラクターが描く苦悩や、社会的な圧力に直面する姿は、「Me Too」運動が焦点を当てる問題を先取りしていると見ることができますよね。このエピソードを通じて、女性が職場での不平等にどう向き合い、どのように抵抗するかを考える一つの視点として捉えることができるのではないでしょうか。
と、書いておきながら、男である私は、日ごろの行いを反省するばかりです。
はじめまして。
動機が短絡的、との見解ですが、ケイがかつての家で自分のみじめな過去を振り返るシーンが描かれていること、ラストでも、社会に対して、「負けない戦って生き残る」という発言をしていること、また女性のパートナーが登場している脚本から考えますと、人一倍、成功することを人生の目的としており、独立した女性として社会で生きようとしている人間であることがわかりますし、詳しくは描かれてませんが傷ついた恋人であるバレリーを背負っていることにもしっかり焦点を当てますと、ケイの殺人の動機は充分納得できるものになっていたと、私は思います。
マークに対しては戦略として、とは割りきれないでしょうがあくまでも生きる目的を満たす手段としての付き合いだったと思います。(あくまでもケイの根底にある成功の目的が満たされるのであれば、恋愛があるなしはどっちでもいい)
この作品が管理人さまからも名作だと選ばれている理由は、脚本上のケイのキャラクター造形が複雑かつ人間的であり、またそれを見事に演じ切った女優さんの役作りが素晴らしかったことも一因となっていると思いました。
ようやく全69作コンプリートして、今は気ままに録画を見返しています。
最近は新シリーズばかり観てたので、最後期とはいえコロンボがまだ「オジサン」なのがいいな、と思いました。働き盛りのベテラン刑事。新シリーズではどう見ても「おじいさん」で、「定年過ぎてるだろ!」と突っ込みたくなります(笑)
本作は、エレベーター内の印象的なシーン、被害者が眼鏡を上げていた事から犯人は顔見知りといきなり指摘するシーンなど、さすがですね。今回あらためて思ったのは、ケイ役の女優さんがいいですねぇ!美しいだけじゃなく、いろんな表情が切り替わるところが素敵。いい女優さんだと思いました。
原題 Make Me a Perfect Murder
英語版の脚本をチェックしていないのですが、冒頭で被害者が犯人に「やるなら完全犯罪で殺してくれ」という部分と一致します。その売り言葉を買うように犯人は被害者が出した凶器での殺人を決意します。このドラマでは重役たちは白人の男性ばかり。女性は一定の地位(プロデューサー兼チーフアシスタント)より上には昇進できないガラスの天井も動機になります。地位を与えずベンツの最高級スポーツカーSLのトップグレード(450)を与えることで女性を満足させようとした被害者の行動も動機の一つでしょう。
これ、いつか検証いたします!
はじめまして。
今回の、NHKーBSの再放送を楽しく視聴しております。
「秒読みの殺人」が好きで観た回数も一番多いです。
どこのコマをとって見応えがあります。
エレベーターの銃を取るシーンは毎回ハラハラドキドキです。
ケイの台詞の日本語訳も見事です。
対話相手により微妙に言葉使い変えています。
些細なシーンも好きです。
マークの家でシャツ1枚からのスカートを巻いて髪をとかしブラシを投げるシーン。
昔の家でろうそくを付けで思い出にふけり、コロンボの首のコルセットを発見するシーン。
ロケバスで機器のスイッチを感情のみで動かして切れて「も~!」と怒るシーン。常に冷静なケイが・・・。
話はそれますがビヨンセのファンなので、この作品を音楽界に変えて映画化して欲しいと思っています。
コメントありがとうございます。
隠れた名作と称すると、本作に失礼かもしれませんが、私にはそんな感じで大好きです。
人気ランキングに1票追加いたします。
ここで出てくるフィルム右肩のパンチとか、サブリミナル効果とか、溶ける糸とか、小学生だった私がコロンボで得た知識はいくつもありました(笑)。それ以後、映画を観るとき、パンチを見ては「これこれ」と。
パトリック・ウィリアムズの音楽は、『死者のメッセージ』でもそうでしたが、シーンにすごく合っていて秀逸ですよね。特に劇中ドラマの『プロフェッショナル』の音楽とシンクロしているところとか。
個人的には車のキーをドリンクに入れるなんて、汚いなーと。さすがアメリカ人・・・ナンバーも”KEY#1”って、むしろ恥ずかしい・・・
私はコロンボが画面で遊んでいるところは、ちょっと浮いてはいるけど、他の方のコメントでもありましたが電子音楽やアートが流行り始めていたことと相まって、コロンボの好奇心の強さと無邪気さが現われているいいシーンだと思って見ていました。
修理屋さんがクレーマー刑事!ほんとだ!ぼろんこさん、ありがとうざいます!クレーマー刑事いつもいい味出してますよね~
コメントありがとうございます。オニール・ファミリーの文章は、勘違いされたとのことで、削除しております。
私も子供時代に見ていましたので、「フィルム右肩のパンチとか」「サブリミナル効果」それに「自動演奏のプレーヤー」などなど、興味津々でした!
このお話は、ケイがエレベーターの天井裏の拳銃を必死になって取ろうとするさまが、とても切なく印象に残っている作品でした。彼女が生家で過去に浸るところは、手塚治虫の『人間昆虫記』でも、やはり出世欲の塊のヒロインが一時の安らぎを得に生家に戻っていたのを思い出します。
女性ながら実力は認められつつ、トップの器ではないと断じられた悔しさは、察せられますが、バレリーを私情で起用したミスと作品を出すタイミングを誤ったミスとの二重のミスは、お世辞にもうまいやり方ではなかった。思うに、後者のミスは出世欲のために殺人を犯したところから、彼女の目は曇ってしまったのではないか。闘って生き残ると微笑んだ彼女の意志の強さには僅かながら希望を感じます。アメリカのガラスの天井は、いまだに女性大統領が出せないところからも分厚さがうかがえますが(日本は言わずもがな)。
ということで、私にとってこの作品は、他のコロンボ作品とは一線を画す、同じ仕事をする女性として胸の痛くなる生々し過ぎて切ないお話なのでした。
そうですね。男女の違いというわけでなくても、判断力という観点で失敗したのだと思います。上司「フラナガン」氏も、すごく良い味を出していて、大好きです。
密かに大好きな作品で、同じように感じていた方々が、いらっしゃって嬉しく思います。アメリカ社会のガラスの天井が、切なく、また、彼女の貧しい過去や、同性愛?と思わせる場面もあり何度見ても深い、大好きな作品です。
ところでこのHPはすごいですね。トリビアや、知りたかった俳優のことなど、ディアゴスティーについてくる冊子など、比べ物ににならないほど、深いですねー
さとさん、ありがとうございます。コメンテーターの方々が、面白い情報を書き足してくださいますので、私もそれを読んでは楽しんでいます。
今回の放映で改めて観直したのは、このエピソードこそシリーズとしての「コロンボ」の集大成だったのかもしれない、ということ。
私、先の感想でラストシーンは「白鳥の歌」を意識的にひっくり返した、と書きましたが、その上に「祝砲の挽歌」のラスト「後悔してると思ってくれるな、必要だからやった」と悪びれない態度でコロンボに複雑な表情をさせたシーンを彷彿とさせるものでした。
改めて、ケイは同時進行で実に多彩なジャンルの番組を仕切っている、という点で観る者を圧倒しています。その一方で、恋も仕事も野心に満ちて男性社会の中でのし上がろうとするケイの失意、転落劇も描き込んで、長尺の「倒叙もの」ならではの犯人を主人公としてじっくりと描く様は哀愁の味わいに満ちています。コロンボの「引っ掛け」もクールな反面、従来の底意地の悪さ(笑)は控えめ、と思いました。
作り込んだ完全犯罪という点では「別れのワイン」の優雅と狂気、独創性の一方で犯人の工作が不自然過ぎるのに対し、動機もトリックも無理が少なく、トリックは「意識の下の映像」を技術の進歩?とスピード感で不自然さをカバーしています。
最後に今回の、今後の私の課題は「ケイは多忙のあまり本当に銃の始末を忘れていたのではないか?」
>ケイは多忙のあまり本当に銃の始末を忘れていたのではないか?
面白い味方ですね。極論かもしれませんがよく言われる部外者にはお宝でも放送の終わった台本と同じである意味どうでもよかったのかも知れませんね。もう1回そこのところを見返したくなりました。他の放送回の犯人は殺人が目的でコロンボと対決することがすべてであるように見えますが、彼女の場合、殺人は手段に過ぎないように見えます。そういえば仕事の邪魔をするなと終始本気で言ってました。他の犯人はコロンボを遠ざけるために同じような言い方をすることはありますが。
今週の再放送を見ましたけど比較するとやっぱり動機がしっかり描かれてますね。肯定的あるいは中性的なニュアンスがないと彼女の生家まで行ってみようとはしないと思うんです。その点、比較に出して悪いですが日本のレインボーブリッジは何だかなと思いました。
こちらを見させていただきましたがお詳しい解説とみなさまの知識に驚かされましたし大変勉強になりました。今週の再放送で見ましたがゲームのように殺人とその解決方法に焦点が当たってるのではなく犯人の動機や背景が描写され他の放送回と比べても素晴らしいと思いました。もともとテレビ業界というこの作品が存在している世界そのものがテーマになっているので描写がおざなりになったり作り物感が出るようなことがなく登場人物に現実感があります。
毎週放送されていた日本のミステリー物ではこのようなものは見あたりません。松本清張くらいにならないとこのようなものはないですね。
自分が感じたのは仕事に関する彼女の歪んだ思いというより女性が社会進出していく中にあって直面している問題というように感じました。破綻で終わってしまうので間違った思いであるかのような印象を受けますが、意思決定も評価を行っている人間もすべて男性であるというフェアとは思われない状況において彼女と同じように働いているバレリーをパートナーとして登場させていることでそれは否定されているように思います。また、最後に私は負けないわというところで締めていることから考えて犯人の強い執着としてとしてではく、これを肯定的に描いているという作り手の気持ちを感じます。自分達の現場のことを描いてるわけですものね。普通の犯人なら無言か負け惜しみを言って退場させたと思います。
これが放送されたのが70年代、自分が初めて見たのは80年代、日本もいずれアメリカと同じようになって行くのかなと見てましたが今でも日本では女性の役員がまったくいないことを考えるとアメリカは進んでたんですね。私は負けないわというセリフから思いつくのは男性と同じようにしないと生きていけない女性政治家、特に与党の政治家の姿と被りましたが日本はまだその段階に留まっているのかなと残念な気持ちになりました。初回に見た時は希望の方が多かったのですけどね。
>意思決定も評価を行っている人間もすべて男性であるというフェアとは思われない状況において彼女と同じように働いているバレリーをパートナーとして登場させていることでそれは否定されているように思います。
非常に鋭いご指摘だと思いました。
様々な分野で社会の女性進出が加速するアメリカでさえ、まだ女性初の大統領は実現しておらず、「ガラスの天井」は完全に無くなってはいないですよね。
アメリカが「ガラスの天井」なら、日本はさしずめ「鉛の天井」ですね。発展途上国の多くと比較しても、とても後れており、もう情けない限りですよね。
>様々な分野で社会の女性進出が加速するアメリカでさえ、まだ女性初の大統領は実現しておらず、「ガラスの天井」は完全に無くなってはいないですよね。
>アメリカが「ガラスの天井」なら、日本はさしずめ「鉛の天井」ですね。発展途上国の多くと比較しても、とても後れており、もう情けない限りですよね。
2年前の投稿時より、むしろ退化してしまっているという現実・・・。
ラストのクレジットエンドのコロンボのストップモーションに、キューパンチが入っているのが、凄いセンスだなっと思いました。
何度も、見ているはずなのに最近気付きました。
私も今回初めて「あっ!」と思って画面の前で固まりました。
映画館もデジタル映写の時代、見ることはないのだな…
本作がNHKで初放映された時は10代だったので、男女の別れ話がこじれた犯行と思っていました。曲がりなりにも人生経験を積んだ今観ると、組織の一員として上司にどう評価されるかーそれが仕事をする、生きる上での大きなモチベーションになっていることに気づかされ、身につまされました。
終盤に車内でケイは重役に最後通告を突きつけられます。ケイの思慮のない行為を非難する重役の指摘は、至極もっともです。敏腕と思われていたケイも、支局長という組織を束ねる立場に置かれると力不足を露呈してしまいました。彼女を見限っていたマークは、その点洞察力に優れていたというべきでしょう。
仕事をする上での力量は、努力だけでは補いきれない。そんな悲哀をケイに感じ、我が事と重ねてしんみりしてしまいました。
子供の頃、コロンボがTVでやると本作か「逆転の構図」ばかりで「またコレかよ!」と、それで個人的な評価が下がってました。
歳をとってから見ると、どちらも良作であり、だからこそ何度もTVで流れていたのだなあと感慨深くなったものです。
昨年1月27日の再放送を見て、第一話から新シリーズ最終話まで全話観た中で一番の作品、というよりも一番心に残る作品であるのが「秒読みの殺人」です。
勿論、それ以外にもドキドキする作品はありますが、もし刑事コロンボのDVDを買うとすれば、私は「秒読みの殺人」1作で全て間に合うと思っています。
ケイがマークを別れ話から殺害に至る動機ですが、ケイは女性としての幸せ(子供を産み、家庭の母親として育児をし、夫を守り支え家事をやりこなす)を捨てて、マークと交際していたはずで、推察ですが、マークとの交際期間で中絶堕胎も経験していたであろうと感じました。(ケイの自宅の造り内装を見て、認知に関わらず、子育てを眼中に置いていたと思います)
勿論、子供を産み育てることだけが女性としての幸福でないことは重々承知の上ですが、ケイは全てをマークに捧げていた、しかしマークは栄転の機に別れを切り出した、なおかつケイが社内的にこれ以上の昇進が難しい最終評価も下してしまった事などが殺害の深い動機であったと感じました(女性としての幸せを投げうって、キャリアウーマンとして尽くしているケイからすれば、昇進の低評価をされることはケイにとって憎悪でしかない)。
テレビ局内そしてスタジオ休憩室で拳銃射殺をする点は、この1点だけなら、ケイの完全勝利でしたが、やはりアリバイ工作があまりにも稚拙で、全米のみならず世界的にも捜査指揮能力が高いとされるロサンジェルス市警察を巻くには力不足のもので、この辺りはやむを得ないと思います。
ただ、音楽が非常に好きで、私はひとり資格試験の勉強や嫁娘が寝静まった後にこの音楽サントラを聴くと臨場感が湧いてきて、いろいろな面で感動と深い味わいが感じられます。
私にとって「秒読みの殺人」は幼少期(80年代前半)に観たかもしれない初めてのコロンボ作品の想い出を合い間って、懐かしさと常に新鮮な感動を湧き起こしてくれる名作の中の名作というものであります。
「刑事コロンボ」では珍しく、明確に季節感が刻印されていた本作。大手テレビ局のNY本社の窓の向こうは降り積もる雪。一方西海岸の海も今回はどこか寒々しいです。NHK-BSではカットされているエンディング・フルクレジット後半部分は、本編でも使われていた、チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」第2幕冒頭(『情景:〔お菓子の国へ〕(バレエ終局でも再度使用される旋律』で盛り上げて締めているので、これは明確にクリスマス前のお話だと解釈出来ます。
今回の犯人は、交際している被害者のNY本社栄転に、一緒に付いて行って自分も認められて本社で仕事が出来るとか、「支社長にしてくれるのね?」とか、自分の実力を過信して勘違いし、そこから悲劇が始まります。
彼女にとって、仕事場のテレビ局とは、そう、「くるみ割り人形」の主人公の幼い少女:クララが夢で観た、憧れの『お菓子の国』なのではなかったのでしょうか? ところが、実際のテレビ局とはそんなに甘いものではなく、規律と実力主義によって成り立つ軍隊のような組織。劇中で使用される、スーザ作曲:マーチ「雷神」がそれを象徴しているのかも。
指揮者の西本智実さんは、「くるみ割り人形」というバレエ音楽についてこう解釈しています。
《・・・第二幕の「各国の踊り」に現代にも続く世界情勢の不均衡が巧みに反映されている・・・(中略)さらに、(主人公の少女)クララの形象は、遠く時間をさかのぼり、エジプト神話の月神イシスにまで重なるとも考えられる。語源として、月光の意味を髣髴させるクララが、人類を絶えず死から蘇らせる月の満ち欠けの太古の女神につながるという解釈である。・・・》
(西本智実&日本フィル「くるみ割り人形」全曲〔2008録音〕CD〔KIC715/6〕ライナー・ノーツより)
そんな言葉を踏まえると、最後のシーンでコロンボに追及されて罪を認めてからのケイの台詞、
ケイ:「私、負けないわ。闘って這い上がってみせる。それが私の生き方」
に、また異なった解釈が可能なのかも。
ところで、指摘されている方も多いですが、旧シリーズの41話「死者のメッセージ」から45話「策謀の結末」までのパトリック・ウィリアムズの音楽は際立って素晴らしいですね。本作の劇伴もまた最高です。
そろそろ今日の現実に戻ります。ラストシーン、コロンボとケイの会話。
コロンボ:「これ(多数のブラウン管モニター)、消しときますか?」
ケイ:「どうでもいいわ」
コロンボ:「エネルギーは節約しなきゃ」
「コロンボ、つまらなくなったな・・・」本邦初放送時にそう思うことが重なるようになっていた十代後半(のちに第5,6シーズンの作品と判明)でしたが、この「秒読みの殺人」は「死者のメッセージ」とならんでとびきり強い印象を残した作品でした。
どちらも犯人と音楽が印象的であることが共通していますが、前者は映像面の演出も秀逸で、エレベーターのスリリングな場面や、クライマックスでの切り替わるTV画面の乱舞は、その後(まだビデオがなかった時代)、「またあれを見てみたいな」と思ったものでした(最後期でもうひとつ映像的に印象的だった場面といえば、「策謀の結末」での、プジョーの疾走とホームズの「四つの署名」の現代版を思わせる海上での逃走と追跡です)。
そして上記2作品は、ブルーレイ全集では音楽とSEだけのトラックを選択できるようになっているように、聴覚面でも強い印象を残しますね。既存曲の利用については、私は繰り返し流れるスーザの明るい曲調が、最後の対決場面の不気味さと狂気?を逆説的に際立たせていると思ったのですが、YS-30さんのチャイコフスキーの分析を拝読して、なるほど、と思わされました。同じチャイコフスキーでの、「殺しの序曲」での使い方はあまりにベタすぎてダメでしたが(私、中年以降はチャイコフスキーやラフマニノフ系の曲が超苦手になりました。でも「くるみ割り人形」は今でも傑作だと思います)。
ただこの作品、ぼろんこさんも言及していますが、副調整室でコロンボがモニターにいろいろな音のカーブを表示させておもしろがる場面は、前後とのつながりもなく流れを悪くしていると思います。海外のサイトでは、これを「コロンボの超さむいシーン選」のひとつに選んでいました(他に「チューバ」「劇団座長」「女性のパンティ」など、ほとんどが新シリーズ)。確かここは日本版でも本放送はカットされたのではなかったでしょうか。YS-30さんなら、この場面について鋭い考察がおありかもしれませんね。
製作エピソード週”Shooting Columbo”によると、シナリオは犯人と犯行をていねいに描くあまり、コロンボ登場までが非常に長くなっていたので、冒頭でいきなりコロンボが追突するシーンを入れることにし、その後のコロンボの姿もそれに沿った形にしたそうです。またラストではもともとプラネタリウムでのライト・ショーで2人が対峙することになっていましたが、サンタモニカの埠頭での現在の形に変えられ、私は、広さ(埠頭)と狭さ(対決する室内)のコントラストもあって、これで良かったと思っています。
第7シーズンの作品を見て、「コロンボ、またおもしろくなってきたな~」と思った当時の私ですが、当時は「シーズン」という概念はもちろん、これが結果的に最終シーズンとなり、これでシリーズが終わってしまうことも知りませんでした。というより、ピーター・フォークもそのつもりはなかったようです。
第7シーズンは明らかに盛り返してきていたと、私も感じております。
ある意味、制作スタッフや俳優も含め常連メンバーを極力排し、「お友達内閣」を、一旦、極力一掃したのが良かったのではないでしょうか?
「刑事コロンボ」で、チャイコフスキーの楽曲は比較的多く使用されますよね。親しみやすいから使いやすいという面からが大きいのでしょうが、「殺しの序曲」では、せめてワーグナーかマーラーぐらい使って冒険して欲しかったです。
本作でのチャイコフスキーは、穿った見方をすれば、同性愛者としての「チャイコフスキー」を隠し味的に使ったと強引に解釈することも可能かもしれないです。
第7シーズンを通してプロデューサーをつとめたリチャード・アラン・シモンズは、ピーター・フォークと60年代に一緒にドラマを作るなど旧知の仲で、その意味ではむしろ究極の”お友達”なのですが、おもしろいことに彼は「コロンボ」を高く買っていなかったそうです。その理由は、日本風にいえば「人間を描けていないこと」にあったとのこと。
「コロンボ」の(特にシリーズ初期の)魅力のひとつは、犯人の犯行やコロンボの”だまし”の意外なトリックにあったと思います。そして登場人物が”記号”的存在に陥るのを救っていたのが、犯人役の俳優やピーター・フォークの演技だったといえるそうです。
しかし、そうした路線はいずれだんだんと息切れがしてきます。ゲスト俳優を大物ばかりで揃えるのは大変ですし、エリートやセレブの犯人たちも、種々多彩な職業に設定するのが厳しくなっていったはずです。個性的なコロンボのキャラクターにも、視聴者はだんだん狎れていきます。
ピーター・フォークもそれに気づいていて、それを打破するためにシモンズに声をかけたのでしょう。2人が1976年の暮れに会った際、シモンズは自分がこのシリーズのファンではないことを明言し、それでも、犯人が犯行に及んだ背景といった人間的要素をもっと盛り込むことを条件に、参加してもいいと述べたそうです。
そして彼がプロデュースしたのが第6シーズン最終作の「殺しの序曲」で、私としてはこの作品は傑作とは言い難いと思っていますが、ラストでコロンボが”人生哲学”を述べる場面は、確かにそれまでなかった路線だと言えそうです。
もし「コロンボ」が打ち切られなかったら、旧シーズンとしての第8シーズンもシモンズが指揮を執ったことでしょうが、さらなる”盛り返し”が見られたかもしれません。その一方で、シモンズは新シリーズの立ち上げで製作総指揮を取ったものの、担当した数作は必ずしもファンの期待を満足させるものとはいえなかっただけに、やはり”時機”というものはあるのだろうな、とも思います。
音楽について稿をあらためますと、確かにワーグナーやマーラーのほうが、いかにも「天才クラブ」にふさわしいといえそうですが、視聴者の多くにとっては親しみづらいかもしれませんね。
メロディが広くよく知られていると思われる作品としては、前者は「ヴァルキューレの騎行」、後者なら「アダージェット(交響曲第5番)」があるでしょうが、どちらも「殺しの序曲」という作品には合わないような気がします。
このエピソードでのチャイコフスキー(「ロミオとジュリエット」)は、作品自体はもちろん名曲で、ドラマの中で流れる分にはいいのですが、この曲の終わりをそのままドラマの最後でBGMに使ったのがいかにも安っぽく感じられ、最初に観た時から「え、これでいいの?」と思ってしまいました。ディスクで見た際には続いて流れるエンドクレジットの”Boo Hoo”は、既存曲の流用でもとてもいい感じなのですが・・・。
「殺しの序曲」全体については、そのうちにもう一度見て、そちらのコメント欄に書いてみたいと思います。
こんにちは。
リチャード・アラン・シモンズにまつわるtempus fugitさまのコメントを読んでいると、初期コロンボからの変遷が手に取るように分かり、「あぁ、それでこういう作品になっていったのか!」と納得することばかりです。
確かに中盤以降から、ゲスト俳優に大物スターを呼び、犯人の心情に寄り添う「別れのワイン」や「忘れられたスター」などのエピソードが続きましたね。そしてアメリカの放映日を見ると、「黄金のバックル」が1976年11月28日、そして「殺しの序曲」が約半年後の1977年5月22日。「黄金のバックル」の後、1976年の暮れあたりで、明らかに方向性に行き詰まりを感じていたのでしょうね。
>その一方で、シモンズは新シリーズの立ち上げで製作総指揮を取ったものの、担当した数作は必ずしもファンの期待を満足させるものとはいえなかっただけに、やはり”時機”というものはあるのだろうな、とも思います。
同感です。「汚れた超能力」〜「殺意のキャンパス」までの作品は、新シリーズの中では比較的良い方に入るように思いますが、先日放送された「死者のメッセージ」や「秒読みの殺人」等と比べてしまうとやっぱり見劣りしてしまいますものね。
その後、試行錯誤しながら新シリーズは現実路線へ進んでいくことになりますが、綺麗事かもしれませんが、個人的には旧のような上質で品のあるドラマを貫いて欲しかったです。
音楽に関しましては…
チャイコフスキーは大好きな作曲家の1人です。しかし、ちょっとドラマチック過ぎますかね…ブラームスの交響曲第3番などいかがでしょう?
tempus fugit 様
まさこ 様
申し訳ありません。チャイコフスキーを同性愛の暗号として解釈したかったのは、「殺しの序曲」ではなくて、43話「秒読みの殺人」の話でした。ケイにバイセクシャル的傾向を私も読み取ったもので・・・。「殺しの序曲」なら、ブラームスはマザコン的性格が強い作曲家でしたから、天才が幼少期に抱えてしまったトラウマのエピソードにも合っているかも知れません。
クラシック音楽の好き嫌いは、個人個人の趣味によるところが大きいです(私なら「殺しの序曲」では、比較的理解しやすい現代音楽にするかも、あるいは、ブラームスのシェーンベルク編曲版とか・・・)。
それよりも、作品に携わった作曲家の力量は、より重要と考えます。
シモンズがプロデュースした旧シリーズを纏めてみます。
1977年 40話「殺しの序曲」 音楽/ボブ・プリンス
1977年 41話「死者のメッセージ」 音楽/パトリック・ウィリアムズ
1978年 42話「美食の報酬」 音楽/ジョナサン・タニック
1978年 43話「秒読みの殺人」 音楽/パトリック・ウィリアムズ
1978年 44話「突撃命令」 音楽/パトリック・ウィリアムズ
1978年 45話「策謀の結末」 音楽/パトリック・ウィリアムズ
こうしてみると、音楽/パトリック・ウィリアムズの作品に好きなものが多く、シモンズ制作との相性の良さを感じております。
それと、私は嫌いではありませんが、「副調整室でコロンボがモニターにいろいろな音のカーブを表示させておもしろがる場面」もシモンズの趣味の可能性が高いですが、シモンズの同様な趣味がより悪い方に働いたのが、48話「幻の娼婦」での、チューバを吹くコロンボと、音楽に合わせた噴水のシーンだとは言わざるを得ません(笑)。
YC-30さま
>申し訳ありません。チャイコフスキーを同性愛の暗号として解釈したかったのは、「殺しの序曲」ではなくて、43話「秒読みの殺人」の話でした。ケイにバイセクシャル的傾向を私も読み取ったもので・・・。
大丈夫です、「秒読みの殺人」のことだと分かりました。(「殺しの序曲」だとすると、オリバーとバーディが同性愛という展開に?!)
それにしても、パトリック・ウイリアムズの音楽、いいですよね!登場人物や状況を実にうまく表していて、作品の出来をグンと底上げしていますよね〜
「幻の娼婦」の噴水のシーンは、tempus fugit さまの2022年6月4日に同エピソードに寄せられたコメントによると、ピーター・フォークのアイデアだそうですよ。米国での評判はあまり良くなかったようで…まぁ音楽の専門家では無いですからね。
>tempus fugit さまの2022年6月4日に同エピソード
あっ、そうでした (>_<)
面白くて貴重な情報を、せっかく教えていただいていたのに !! ご指摘に感謝です !!
m(_ _)m
>副調整室でコロンボがモニターにいろいろな音のカーブを表示させておもしろがる場面は、前後とのつながりもなく流れを悪くしていると思います。海外のサイトでは、これを「コロンボの超さむいシーン選」のひとつに選んでいました
音楽と光のコラボは、あのころ電子音楽などとともに、前衛芸術のひとつの可能性として、あらゆる実験手法を模索していた時代だったので、確かに「コロンボの超さむいシーン」ではありますが、美術アートに興味があったコロンボ(ピーター・フォーク)が、テレビ局にしかない贅沢な機材で遊んでみたかった気持ちは、自分にもよく理解できます。
日本でもYMOなどが登場する前夜の、あの時代ならではの話だと思います。
コロンボがテレビ局のモニター室で画面に模様を写して喜んでいるシーンについてです。あのシーンは確かにあまり意味が分からず長い感想を持ちます。一方、クライマックスにてケイがヒステリックになりあべこべに画面を切り替えようとするシーンに、一瞬あの模様が映るのです。ここで、モニター室のシーンとクライマックスが接続されるのです。すなわち、モニター室のシーンでは恐らく意図的にコロンボが間抜けに描かれています。単純なパターンを映し出して無邪気に喜ぶコロンボはなかなか間抜けです。その間抜けさが、クライマックスでケイに乗り移るのです。気高い女性が追い詰められることでコロンボから逃れようともがくさまは哀れながらも滑稽ですが、その演出に一瞬だけ映る模様が一役買っているのでは、と思いました。何度今作を視聴したか分かりませんが、クライマックスの模様に気付いた際に思わず爆笑してしまいました。
いつも楽しく拝見しています。お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、小さな発見がありました。
舞台となるテレビ局のエントランスというか外観は、「毒のある花」のビューティーマーク社のエントランスと同じように見えました。また、建物自体は映っていませんが「二枚のドガの絵」でエドナ夫人が車を停めたショッピングモールの駐車場と、今作でケイが停めたテレビ局の駐車場も同じ場所に見えました。