- フィンドレー・クロフォード「ベントレー・ターボ・R」
- ガブリエル・マッケンリー「フォルクスワーゲン・ビートル・タイプ1・コンバーチブル」
天才作曲家が実は無能で脳天気
容疑者特定の瞬間が見えない
しかし警部はいったいどのタイミングでクロフォード氏を犯人とにらみましたかね~。狂言ガス欠をしたくらいなので、その前ということになりますが、私はそれほど怪しく感じませんでした。
序盤が延々と続き、急に投了(負けを認める)シーン
コロンボが犯人を徐々に追いつめて行く雰囲気もなく、将棋で言えば長い序盤が延々と続き、急に投了シーン…という雰囲気。しかも、えらく楽しそうに犯行を認めているし。普通だったら認めません、殺人容疑ですから。「復讐を抱いて眠れ」も同じく、こんなにあっさり片付けないでほしい気がします。演出のパトリック・マクグーハンの好みでしょうか。
コロンボ作品のラストシーンは、犯人がじたばたしながらも完全に敗北を認めざるを得ない…ってのが美しいと思ったりしますが、今回は動機と状況証拠だけで逮捕してます。「音楽クラブのある刑務所があったら紹介してくれ」が自供ですね、楽観的な人です~。
現実逃避型の自供か?
This Old Man
またまたマクグーハンの娘
今回もデガルモ刑事が活躍
原題「Murder With Too Many Notes」の直訳は「あまりに多くの音符との殺人」
「あまりに多くの音符」というのは、クロフォードの作風を意味しているのでしょうか?映画「アマデウス」でモーツァルトが皇帝から「音符が多すぎる」と指摘され「自分の曲には必要な音符しかない」と反論した場面を思い出しました。音符が多いというのは、洗練されていないような意味にもとられ、クロフォードの作風が古臭いことを比喩しているのだとも感じます。それに対しガブリエルの曲は映画を引き立たせる最小の音符で構成されていたとか。
音符とメモ
音楽には一般的に「CDEFGAB」「ドレミファソラシ」のNoteがあるのですね。
「G・A・B・E」「B・E・C・C・A」
「B・E・C・C・A」「G・A・B・E」
というメロディ(音符・Notes)を愛する人に渡した手紙(メモ・Note)。これはとても綺麗なテーマだと思えます。しかも「Too Many Notes」ではなくシンプル。よく見ると4/4の楽譜に納まっていませんが(笑)
私の好きな「ペンギン・カフェ・オーケストラ」が敬愛する作曲家「ジョン・ケージ」に捧げた曲「Cage Dead(1993)」では「C・A・G・E」「D・E・A・D」のコードあるいは音符を順に弾く構成でできています。本作のヒントになっているでしょうか?
監督:パトリック・マクグーハン
脚本:ジェフリー・ケーヴァ、パトリック・マクグーハン
フィンドレー・クロフォード:ビリー・コノリー(声:佐々木勝彦)
ガブリエル・マッケンリー:チャド・ウィレット(声:森岡弘一郎)
レベッカ:ヒラリー・ダナー(声:山田里奈)
シドニー・リッター:チャールズ・チョフィ(声:小林勝彦)
デガルモ刑事:リチャード・リール
マーシア:アン・マクグーハン
加筆:2024年9月5日
YUKIゆき(アイス)さんとの、『はだしのゲン』の話題で思い出したんですが、最近、佐村河内守:交響曲第1番 「HIROSHIMA」(2013年2月25日、東京芸術劇場に於けるライヴ収録)の中古DVDを怖いもの見たさに入手し、この曲を初めて聴きました。曲終了後の満員の聴衆の感動の坩堝と化した会場の熱気が、これでもかというほど伝わってきて、指揮者、オケのメンバー共々、とても気の毒になりました。
当時、佐村河内守が創作した自身の物語とこの曲に興味を持っていたら、私も聴衆のひとりとしてコロッと騙されたかも知れないと感じたほど、それはそれは、よく出来た贋作でした(純粋に曲に興味が有るので、スコアを入手したいほどです)。
1話「殺人処方箋」の名セリフ、
フレミング:「人は固定観念によって物を見る。連想の基本さ。・・・」って、こういうことなんですね。
そして、政治家なのか広告代理店なのか放送局なのかわかりませんが、私だって今日もまた、別な何かに騙され続けているんでしょうね。
わたし、「HIROSHIMA」は、かなりの名作だと思っていまして、
これを実際に作曲した方も長い間不遇だったんだろうなあ、気の毒だなあ、と当時思ったことを覚えています。
私事ですが、私は以前地元で一度だけ小さなピアノリサイタルをさせていただいたことがあって、知人がそれを地元の新聞に掛け合ってくれたのです。
そうしたら、記者さんは、「その方は、車いすだとか、目が見えないとか、余命何年とか、ありますか。」と言ったそうです。
その時は、悔しい気持ちで、もうこれ音楽やめようと感じただけでしたが、今なら、交通事故に遭ったふりでもするかもしれません(笑)
実力云々ではなく、そういう方面に頭が働く人の方が(残念ですが)成功するってことはよくあるのでしょうね。
でも、ガブリエルさんが、監督の前ではクロフォードの事を暴露しなかったこともそうだと思うのですが、不器用にまっすぐに生きてる人の表現の方が、本当は人の心を打つのではないでしょうか。
コロンボだって、地味に、実直に仕事をするからこれだけ多くのファンの心をつかめたのでしょうしね。
ただ、佐村河内さんには個人的に感謝していまして、この件を知ってから、思うように弾けないと、「あーっ!曲がおりてこない!」とわざと叫んで、リフレッシュしている私です。とてもスムーズに弾けるようになります!
追記
冗談のつもりでしたが、交通事故に遭ったふり、は、面白くなく不適切だったかもしれませんね。一応撤回しますね。
YUKIゆき(アイス) 様
佐村河内 守(新垣 隆):交響曲第1番 「HIROSHIMA」は、確かにいい曲ですよね。
大ヒットしたタイミング的に、東日本大震災で深く傷付いた人々へ、癒しと再生への勇気を与えた貢献度が大きかっただけに、ファンへの裏切りが判明した時は非常に罪深かかったですよね。あの曲を聴いて感動のあまり涙したという話を当時どれだけ聞いたことか・・・。今更何を言っても後出しジャンケンになりますが、私は、あの曲にあれほどの人気が出る前から、彼が書いたとされる自伝的な単行本を立ち読みして、何か本能的な違和感が有り波長が合わず、それ以上深入りしなかったのが幸いしました。
最後に、やっと一条の希望の光が差し込むような終結部のコラールが訪れるまで、曲のほとんどが、やたらと暗鬱な曲想で、多くの人は、佐村河内の過酷な人生体験から来る暗さだと同情し共感していたのでしょうけれど、実際は、ゴーストライター新垣 隆の、佐村河内とのいびつな関係で自分が黒子に徹していくら良い曲を書いても、全部、佐村河内の手柄と名誉になり、佐村河内だけがスポットライトを浴びるだけであり空しく、また、自分が本心で書きたいジャンルの曲では無いという鬱屈・屈折で苦悩した精神状態の有り方が、あのように多くの人の心に強く訴えかける説得力ある感動的な曲を書かせたんだと考えると、何だか複雑です。
事件が発覚してから新垣が自由に書いた、交響曲 《連祷》 -Litany-という曲の録音もついでに聴きましたが、到底「HIROSHIMA」ほどの魅力は無いように私には感じましたし、実際に「HIROSHIMA」のような人気には、まるで及んでいないようです。
佐村河内から新垣に渡された、紙きれ一枚の、交響曲を作曲させるために子供が書いたような「指示書」は、一種、現代音楽での「図形譜」のような役割を立派に果たしたのではないかと仮定すると、ますます、あの曲への興味は尽きません。
交響曲第1番 「HIROSHIMA」は、佐村河内 守と新垣 隆という、二人の人間の弱い性(さが)同士の不幸な出会いの化学反応から偶然生まれた名作として、そろそろ客観的に再評価されて欲しいですし、時間が経過し冷静になれる今だからこそ、もう一度世に出してやってもよいのではないでしょうか? 少なくとも、プロパガンダの「復興五輪」や映画「Fukushima 50」などよりも、はるかに真実味を持って、私の心の奥底まで強く迫って来る忘れ難い「芸術」でした。
68話「奪われた旋律」の話に戻すと、前述した実際の事件から、ガブリエルも、もし命が助かってクロフォードからの束縛から逃れ自由になったとしても、緊張感が解け安易に流れ、意外にその後の作曲のクオリティーが落ち、クロフォードほどの売れっ子の映画音楽作曲家にはなれないのではないかと想像してしまいました。
>思うように弾けないと、「あーっ!曲がおりてこない!」とわざと叫んで、リフレッシュしている私です。とてもスムーズに弾けるようになります!
そうです!、佐村河内氏から学べることに、まず真似して形から入ってみることも大切であるという真実がありますよね(笑)。
仁科雅之様
>私は、あの曲にあれほどの人気が出る前から、彼が書いたとされる自伝的な単行本を立ち読みして、何か本能的な違和感が有り波長が合わず、それ以上深入りしなかったのが幸いしました。
さすが仁科様ですね!
私はひねくれものなので、みなさんが感動した、と話題になっていた時は全く聞いていませんでした(笑)
> 少なくとも、プロパガンダの「復興五輪」や映画「Fukushima 50」などよりも、はるかに真実味を持って、私の心の奥底まで強く迫って来る忘れ難い「芸術」でした。
同感です!
>68話「奪われた旋律」の話に戻すと、前述した実際の事件から、ガブリエルも、もし命が助かってクロフォードからの束縛から逃れ自由になったとしても、緊張感が解け安易に流れ、意外にその後の作曲のクオリティーが落ち、クロフォードほどの売れっ子の映画音楽作曲家にはなれないのではないかと想像してしまいました。
そうなんですよね…
何度も言うようですが、私は、ガブリエルが、監督の前では暴露せず本人の前でフェア?に主張したことや、クロフォードの話を信じたことなどが(素直というか、ずるくないというか)、自分の失敗経験からも、もっとしたたかになれ!うまく立ち回れよ!世に出れないぞ!とはらはらしたのですけど、でも、それをできるようになったら、それは音楽家としてはむしろマイナスなのでは、という気もしています。
>もっとしたたかになれ!うまく立ち回れよ!世に出れないぞ!とはらはらしたのですけど、でも、それをできるようになったら、それは音楽家としてはむしろマイナスなのでは、という気もしています。
同感です。生きるのに不器用だからこそ、その穴埋めに生み出される芸術こそが、本物のような気がします。
福島第一原子力発電所事故の検証については、NHKは、これまでいい仕事をしてきていると感じています。比較すると、映画「Fukushima 50」は、現在では、もはや捏造に近いです。
仁科雅之様
わたし軽く同感ですなんて書いてしまいましたが、「Fukushima50」
見てないんですよ!
ひねくれもので観てないのですが、単に時代に乗り遅れております(笑)。
これは、私だけかもしれませんが、スケールが大きくみんなの感動を誘うもの、というようなものがどうも苦手です。
コロンボは、主役のコロンボが地味で目立たなく、基本派手なアクションも説教もないので好きなのかもしれません。
NHKが制作した、南海トラフの番組は予約してあり、関西在住としてこれから観る予定です。一部に{原発について触れてない!}という指摘がありましたので???となっています。仁科様のコメントを読み、見るのが楽しみです。
ところで、ご迷惑でなければ、仁科様に音楽ののことなどでご教授いただきたいことがあるんです。
Guillaume Sutreのチャンネルで、リリのノクターンを演奏しており、私もそこでコメントをしていますので、もしよろしければそちらでお話できないかなと思ったのですが、ご迷惑でしたらこれは無視して下さい!
追伸マーク・ラファロって方、あたしは知らなかったのですが、フランスのピアニストのマルク・ラフォレと名前同じなのでしょうか?
YUKIゆき(アイス)様
取り急ぎ、フクイチ原発事故の経過について、深掘りして優れた内容のいい仕事だと感心したのは、3月に放送された、
『NHKスペシャル』<シリーズ「メルトダウン」 File.8> 「前編 原発事故・危機の88時間」「後編 事故12年目の“新事実”」
とか、
分厚い書籍の、NHKメルトダウン取材班 (著)『福島第一原発事故の「真実」』講談社 (2021/3/1)
とかです。南海トラフの方は残念ながら観ていません。
このフクイチ事故の経過については、調べれば調べるほど、二転三転、それ以上のどんでん返しがあって、どんなミステリーより私には面白いです。
但し、NHKで、フクイチ事故関連の番組は年々減っていますし、書籍もあえて講談社から出したり、政治的配慮はそこかしこに感じます。
68話「奪われた旋律」について新たな発見があり、音楽その他の件も、後日、時間がある時に、改めてコメントします。しばしお待ちを・・・。
最近、NHKをぶっ壊すはずの党がぶっ壊れまくったり、某宗教の教祖が死んで一か月以上経っても、教団から何の発表も無かったり、アメリカの前大統領が起訴されたり、日本も世界も現実社会のニュースのほうが面白過ぎて、まさに「事実は小説より奇なり」な「事件」ばかりで、悔しいけれど、少しコロンボから遠ざかっています(苦笑)。
YUKIゆき(アイス)様
先日の返信の続きです。
>コロンボは、主役のコロンボが地味で目立たなく、基本派手なアクションも説教もないので好きなのかもしれません。
そのお言葉で思い出したのですが、先日お亡くなりになった坂本龍一さんは、・・・・・・子どもの頃はハリウッドでも何でも派手な映画音楽が大好きだったが、今は逆に静かな映画が好きだ。しかし、その自分が仕事をするときは監督次第。目立たないように作ったりすると、「いや、もっと興奮する曲を作ってくれ」みたいなことを言わるから・・・。そこは頑張って、やはり映画は監督のものなので、引き受けたからにはなるべく沿うように作っている。どうしてもできない時はやめちゃいますけど。・・・・・・みたいなことを、1~2年ほど前おっしゃっていました。
映画音楽を担当した作曲家の多くは、映画では、あまり音楽が出しゃばっていてはいけないと言っていますよね。音楽の存在に気付かれないぐらいが理想だという作曲家の言葉を、よく目にします。
結局、映画において最も偉いのは監督であり、どんな大物作曲家でも監督の意向に従うしかないのでしょうね。監督からしてみたら、偉くなり過ぎてプライドが強く、音楽が主張し過ぎて演出意図を無視しがちで言うことを聞かないクロフォードより、謙虚で若くスポンジのように指示したことをよく吸収して理解するガブリエルの仕事ぶりのほうが、しっくりくるのは当然でしょうね。
>マーク・ラファロって方、あたしは知らなかったのですが、フランスのピアニストのマルク・ラフォレと名前同じなのでしょうか?
ピアニストのMarc Laforet (マルク・ラフォレ)は1965年生まれ、俳優のマーク・アラン・ラファロ(Mark Alan Ruffalo )は1967年生まれなので、ほぼ同世代ということだけは共通していますね。
>Guillaume Sutreのチャンネル
探せたら、コメントしてみたいです!
仁科雅之様
本のこと、聞けば良かった!と思っていたところ、ご紹介ありがとうございます!
それから、以前ご紹介いただいた、女性作曲家の本、タイトルを忘れてしまって…それから、もう一つ以前外国人作家の本もご紹介されていましたよね。もう一度教えていただけるとありがたいです。
私事ですが、本も録画したTV番組も、手つかずのものが山と化していて、部屋は彼氏さんが掃除してくれたりで何とかやっているこの頃なのですが、もうすぐ読み終わる宇江佐真理さんの江戸時代小説に、亭主に家事をさせるなんてとんでもないというくだりが出てきて、ドキッとして、これは作者自身の意見なのかなあとか、測りかねています。
コロンボの人種差別論争?などもそうだと思うのですが、フィクションの場合、それが作者や作中人物の意見なのか判断が難しいときがあります。
70年代ラバー様が、「幻の娼婦」のところで、ライスプディングは、つまらないもの、オールドミスを意味する、とご教示くださっていましたよね。興味深く拝見しました。
そんなもの言いが通用した時代に生きてなくて良かった、ミスターでもミセスでもオールドはオールドじゃ!と思って(激昂?)おりますが、コロンボは、つまらないもの、と馬鹿にされた犯人にとても思いやり深く接していましたね。
わたしが改めて言うまでもないでしょうが、もしコロンボにそういう思いやりがなかったら、ここまでの人気シリーズにはなってないと思うのです。
これは「幻の娼婦」のところに書くべきでしたでしょうか。失礼しました。
>結局、映画において最も偉いのは監督であり、どんな大物作曲家でも監督の意向に従うしかないのでしょうね。監督からしてみたら、偉くなり過ぎてプライドが強く、音楽が主張し過ぎて演出意図を無視しがちで言うことを聞かないクロフォードより、謙虚で若くスポンジのように指示したことをよく吸収して理解するガブリエルの仕事ぶりのほうが、しっくりくるのは当然でしょうね。
きっとそうなのでしょうね。スポンジって、なるほどと思います。
坂本さんのエピソードは存じませんでした。ストーリーに合わせて音楽を創るのだから、大変なんでしょうね。
追伸わたしは林光先生を世界のハヤシと呼んでいまして、なんとなく、コロンボもやっているマンシーニや、ミシェル・ルグランにちょっと似ている気がします。ですが、和のオリジナル的要素があって、とても好きです。
YUKIゆき(アイス)様
>女性作曲家の本、タイトル
「女性作曲家列伝」小林 緑 (編集) (平凡社選書)です。名著ですよ。おススメですよ!
>ライスプディングは、つまらないもの、オールドミスを意味する
こちらのブログで、どなたかのコメントに有りましたが、「old maid」という表現もありましたよね。いずれにせよ、女性には侮辱的極まりない言葉ですよね。
>フィクションの場合、それが作者や作中人物の意見なのか判断が難しいときがあります。
その時代の常識が現在とまるで異なるという点が大きいでしょうか? この前読んで面白かった本で、YUKIゆき(アイス)様に今、最もおススメしたい本に、
「女を書けない文豪たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学」イザベラ・ディオニシオ (著)(KADOKAWA 2022/10/28)があります! Amazonのレビュー等で、ぜひご確認ください!
林光先生の音楽、いいですね!
私は、
『林光:ピアノソナタ(1965 初演)/10人の奏者のための「プレイ I」(1971 初演)/混声合唱のための「原爆小景」1. 水ヲ下サイ(1958) 他』というNaxosのCDを所有しており、こちらもおススメ盤です。Naxosの「日本作曲家選輯」のシリーズは、解説も非常に詳しく、どれも充実していました。
ご質問へのお答え漏れがありました。
>それから、もう一つ以前外国人作家の本
レイモンド・カーヴァーでしたか?
こちらも、Amazonのレビュー等でご確認いただきたく、日本語では村上 春樹 訳でほとんどの作品が読めますが、彼の作品は小説であっても詩のようなものなので、英語も比較的簡単だし、出来れば原文でも味わいたいところです。
仁科雅之様
早速教えていただきありがたいです。ありがとうございます!
コロンボファンのかたは、マンシーニの音楽がお好きな方も多いと思いますが、この間マンシーニベストをYoutubeで聴いていたら時のたつままが流れてきて、!?!となりました。
エルマーバーンスタインを聴いていたら酒とバラの日々が出てきたりするので、一瞬自分の頭がおかしくなったのかなと思いました。
著作権のことで文句を言われた時の対策なのでしょうか。
林先生のCDは持っていないので、引っ越ししたら手に入れたいです。ご存じかもしれませんが、弦楽の為のアレグロ 品川ジュニアフィルハーモニーオーケストラもとても良かったですよ!
YUKIゆき(アイス)様
林 光:弦楽の為のアレグロ ( 品川ジュニアPO演奏)の動画、YouTubeに上がっていますね。美しい演奏ですね。ご紹介、ありがとうございます。この曲、マンシーニ作曲『刑事コロンボ』のテーマ(NBCミステリー・ムービー のテーマ)のように、ヤマハコンボオルガンYC-30の中古品を主旋律の目立つ部分に使い、この楽器でポルタメント(もしくは、グリッサンド)を思いっきり効かせた編曲をしてみたくなりました(笑)。
マンシーニベスト他のYouTubeに上がった嘘情報については、意図がわかりませんね。
Murder With Too Many Notes の Notes は先述の通り音符と手紙ですね。
ベテラン作曲家の音符(あまりにも過多)と被害者と恋人との間の手紙を指しています。
コロンボシリーズでは一つの名詞に二つの意味を持たせることをよくやっていて The Most Crucial Game(アリバイのダイヤル)のGameは試合と獲物のダブルミーニングです。
原題直訳は言うまでも無く「音符が過剰な殺人」で、too many notesは、指揮者が練習でオケの奏者に解釈を要求する時に、「Trumpet, too many notes!」(トランペット、音が多過ぎる!)というふうにも使うそうですね。
noteは、覚え書き、走り書き、メモ、記録、注記、兆候、(人の)印象や様子という意味もありますので、「手掛かり多過ぎの殺人」というダブルミーニングが、皮肉なことに、後半の「緩過ぎるストーリー」に、ぴったりにもなってしまいましたね。
仁科雅之様
>本作のコメント欄で、いろいろな話題のやりとりをしましたが、結果的に、「死者のメッセージ」という邦題に、ぴったり合致しているのではないでしょうか?
こんばんは。また移ってまいりました!
仁科様からのメッセージで、こちらのエピソードの指揮棒が浮かびました。
コロンボにとって手掛かりになったガブリエルの指揮棒も、
意図はしていなかったにもかかわらず、死者のメッセージになったように感じます。
誠実に生きてきた二人の記念の品がカギになったわけですが、
それに比べてクロフォードの方では、おそらく誠実に向き合う異性(同性でも良いですが)もいなかったのしょうね?
それから、この作品は先日初めて見まして、まだすべての方のコメントは読めていなくて、仁科様もお気づきでどなたか指摘されていることでしょうけど、
音が多すぎる曲を作ることは、地位とか名誉とか多くのものをむさぼってきた生き方と関係あるのでしょうか?
そして、クロフォードさんは、コンサートの最中に自分が仕掛けた装置?による音が入ってくることに気づかなかったのでしょうか?
建物から落ちるときに悲鳴が聞こえるはずだということも?
ガブリエルさんについては、もうだいたい筋が読めたときに、はやく言え!今監督の前で言え!殺されちゃうぞ!と気が気じゃなかったです。
こんな純粋なひとの才能が消されてしまって残念です。
ただ、クロフォードとガブリエルのおそらく間くらいの世代の、音楽を職業にしていた人間としては、クロフォードのそうまでして音楽をやりたい気持ちも、少しだけわかるんです。
でも、もう十分名声を築いたしこれからも音楽をやれるのだから、若い才能を利用せずに、応援してあげて欲しかったです。
YUKIゆき(アイス)様
この作品については、題材が最高なだけに、誰が観ても脚本の磨き上げが不十分であり、疑問点続出で残念な出来になっていますよね。だだ、2000年初放送(米国)なのに、まだ録画で複数回視聴されることを意識していなかったような推敲無しの即興で書きっ放しのような大雑把さが、かえって良い味を出していて、私にとっては、いとおしい作品です。
>クロフォードの方では、おそらく誠実に向き合う異性(同性でも良いですが)もいなかったのしょうね?
仰る通りかもしれないです。古今東西、新たな恋愛が霊感の源泉になる芸術家は多いですよね。
>音が多すぎる曲を作ることは、地位とか名誉とか多くのものをむさぼってきた生き方と関係あるのでしょうか?
う~ん、そこはあまり関係無いような気がします。強いて言えば、売れっ子作曲家になり多忙になり過ぎたから、段々アシスタントに作曲を依存する比率が高くなっていったと考えるのが自然だと思っています。
>でも、もう十分名声を築いたしこれからも音楽をやれるのだから、若い才能を利用せずに、応援してあげて欲しかったです。
一般的に、こんな動機の殺人は起こり得ないのではないでしょうね。芸術の女神ミューズに見放され、霊感が二度と降りてこなくなることが、アーティストにとって最も恐ろしいのではないでしょうか?
仁科雅之様
いつも、気ままにほかのエピソードに移ってくるたびにお返事を下さり、ありがとうございます!
恋愛してもうまくいかないか、恋愛自体しない芸術家もきっと多くて、
仁科様に以前気づかせていただいた 芸術家の独身についての多さについて思い出しました!
ただ、うまく言えないですが、このクロフォードさんの性格はそれとは違い、単に不誠実というか。
>う~ん、そこはあまり関係無いような気がします。強いて言えば、売れっ子作曲家になり多忙になり過ぎたから、段々アシスタントに作曲を依存する比率が高くなっていったと考えるのが自然だと思っています。
好きなことを仕事にするとなかなか大変だったり、長くやっているとたぶんいろいろと壁にぶつかるのでしょうね…?
>芸術の女神ミューズに見放され、霊感が二度と降りてこなくなることが、アーティストにとって最も恐ろしい
「あーっ!曲がおりてこない!」を思い起こしてしまいました…
仁科様はご存じでしょうが、
(わたしはこれを山田太一さんの本で知ったのですが、)シベリウスが70か80歳でぴたりと作曲をやめてしまい、晩年の20年を、田舎の方に引っ込んでゆっくり自分の曲の放送を楽しんだりして過ごした、と読みました。
山田さんは、ひとびとはこれを、謎の20年、と呼んでいるというが、
少なくとも私には謎などと思えなかった、人間年を取れば大抵の人は知力も落ちてくるし云々、の後で、いつまでも活躍し続ける若々しい年配者もいて、それは大変素晴らしいが、そういう人らばかりをもてはやすのは、そうでない人間を、駄目な年寄り、として排除することにつながらないか?と書いてらっしゃいました。
(Wikipedia では、「ヤルヴェンパーの沈黙」として紹介されていて、年齢ももう少し若いですが)
クロフォードさんが、年齢のせいでないにせよ、書けなくなったことを、そんなに気にすることはなかったと思いますが、耐えられない人もいるのでしょうか。
私がクロフォードの立場だったら、近年の久石譲みたいに、知名度を生かして、思い切って仕事を指揮者主体に転向してみたいですね。
名ピアニストのアシュケナージが徐々に指揮者に仕事の重点を移していったのも、案外、加齢によるピアニストとしての技巧の衰えを自覚しはじめ恐れたためではないかと想像しています。
久石譲にもアシュケナージにも、一般的に難曲で知られるストラヴィンスキー作曲の『春の祭典』を指揮した録音があり、両方聴きました。真に「ブラボー」と叫びたくなるような名演奏でした。機会があれば、ぜひ期待せずに聴いてみてください。あまりの素晴らしさに吃驚すること請け合いです。
人間年を取れば大抵の人は知力も落ちてくる→体力と書いたつもりでした。
指揮者に転向、とか、いいですね!
その時の自分がやれることを見つけるって大切だよなと思っています。
春の祭典について教えてくださりありがとうございます。
Youtubeでは見つからないのでCDで聴いてみます!
(ちなみにコロンボのブルーレイ欲しい人間はここにいますが一応御冗談だと理解していますのでご安心?ください。)
追伸 仁科様が教えてくださったはだしのゲンに関するニュースを聞いて、単行本の解説を思い出しています。
中国名の学者さんでしたが、関係ないこと書くなと叱られるのを承知で
少しだけ…
「はだしのゲンの素晴らしさをあちこちで書いてきた私は、はだしのゲンが、反戦漫画として、反戦!という人々には良いマンガだとされ、好戦派の人々にはけしからん悪いマンガだとされている現状を残念に思う。そうではない、ゲンの政治的な言葉が”正しい”かどうかは大した問題ではない、この漫画は一人の子供の生き抜いていく力、人間を描けている点で傑作漫画なのだ。」というようなことをこの方は書いてらっしゃいました。
ゲンは絶望的な状況でも仕事を見つけて生き抜き、ほかの人を気に掛けるやさしさも失わないんですよね。
汚れ仕事もなんでもやるところも、コロンボと重なります。
改めて、68話「奪われた旋律」の魅力は、音楽の現場が生き生きとリアルに描かれていること、登場人物の音楽への愛情をひしひしと感じられる点にあり、その意味では、旧シリーズ10話「黒のエチュード」を遥かに上回っていると思います(日本のテレビドラマ版『のだめカンタービレ』『カルテット』とか、今放映している『リバーサルオーケストラ』と、少し似たような楽しみ方が出来ますね)。話の構成が中途半端に終わってしまっているのは、シューベルトの未完成交響曲を連想します。
シベリウスは、5本の指に入る好きな作曲家で、特に、4番以降の交響曲や、最後の作品に近い交響詩『タピオラ』は、筆舌に尽くしがたいほど好きです。確かに、第7交響曲や交響詩『タピオラ』といった究極の傑作を聴くと、自分の仕事をやり切った感が強く、年齢的にも時代的にも、自然環境抜群な地で、悠々自適な年金生活で満足してしまった彼の心情はわかる気がします。
シベリウスがフィンランドの国民的作曲家と呼ばれ、祖国から、老後多額の年金を貰えた所以は、若いころ、帝政ロシアの圧政に抵抗してフィンランドへの愛国心と祖国の独立運動を讃えて書いた超人気作『フィンランディア』に依るところも大きいのでしょう。
作曲家を含めた芸術家のインスピレーションが湧く源泉には、「恋愛」と、もうひとつは「戦争」(「災害」も)がありますよね。ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』とか、本作でも使われたチャイコフスキー『1812年』とか、マーラーやラヴェルやショスタコの諸作品とか・・・。
クロフォードには恋愛体験も、反骨意識も愛国意識も、職業へのハングリー精神さえも、売れっ子になり満ち足り過ぎて失ったことが、饒舌なだけで、真に優れた音楽が書けなくなった理由なのか?・・・だから麻薬以上に勘違いした逆噴射で斬新なインスピレーションを湧かせようと究極の刺激を求め、殺人に走ったのか?・・・コメントを書きながら、そんな悪い発想が、ふと脳裏をよぎりました。
『はだしのゲン』についてのご考察には、心底同感です。広島市は、政治的に都合の悪い本を図書館から撤去する「焚書」も実行しつつあります。こんな都市でサミットなんかやらないほうがいいですね。
『コロンボ』のBlu-ray、断捨離の一環としてマジで差し上げてもいいんですが、よく考えたらコメント欄のやり取りだけでは、実行に移す手段が有りませんでした。何かよい具体的方法はないでしょうか?
仁科雅之様
>クロフォードには恋愛体験も、反骨意識も愛国意識も、職業へのハングリー精神さえも、売れっ子になり満ち足り過ぎて失ったことが、饒舌なだけで、真に優れた音楽が書けなくなった理由なのか?・・・だから麻薬以上に勘違いした逆噴射で斬新なインスピレーションを湧かせようと究極の刺激を求め、殺人に走ったのか?・・・コメントを書きながら、そんな悪い発想が、ふと脳裏をよぎりました。
売れたらなぜか駄作を創るまたは演奏レベルが下がる人っていますよね。金銭と安定を得た安心感、驕りや惰性なのか、行き詰りを感じてしまうのか…
Blu-rayの件、本当にお気持ちだけありがたく頂戴します!ありがとうございます。
(これからも、何かにつけて仁科様にコロンボのことで色々聞きたいですし…)
ところで昆虫食が話題になっていますね。
備えはした方が良いとは思いますが、
〇〇有事、とか、有事や食糧危機が起こるのが、(起こす満々みたいな)いつの間にか大前提になっていて、なぜそれが起こらないように知恵を絞りましょう、とならない?と疑問に感じます。
昆虫をビジネスにしようとしている気がして、胡散臭いなあ、と思うのですがこの感覚は的外れでしょうか。
煽っているひとたちが、自分たちだけ「美食の報酬」のようなごちそうを食べ続けるつもりか?コロンボの犯人にいそうだな、逮捕してください、などと心の中で呟いていしまいました。
起こす満々✖→起こす気満々、の間違いです。
失礼しました。
YUKIゆき(アイス) 様
>売れたらなぜか駄作を創るまたは演奏レベルが下がる人っていますよね。金銭と安定を得た安心感、驕りや惰性なのか、行き詰りを感じてしまうのか…
同感です。その件は思うところがあり、今回上段のコメントに書いてみました。
>昆虫をビジネスにしようとしている気がして、胡散臭い
そのお言葉にも全く同感です。
>煽っているひとたちが、自分たちだけ「美食の報酬」のようなごちそうを食べ続けるつもりか?
そのご意見は、私もそう勘繰りたくなります(笑)。
実家に、国内有名ブランドメーカー、株式会社こおろぎ社製の、最高級品ではありませんが、マリンバとビブラフォンがあるんです。実家に戻ると時々叩いて遊ぶんですが、じつに美しい音がして癒されます。
こおろぎは、優しい音色を聴かせてくれるだけでいいです(笑)。
>実家に、国内有名ブランドメーカー、株式会社こおろぎ社製の、最高級品ではありませんが、マリンバとビブラフォンがあるんです。実家に戻ると時々叩いて遊ぶんですが、じつに美しい音がして癒されます。
こおろぎは、優しい音色を聴かせてくれるだけでいいです(笑)。
コオロギ社のサイト見てみました。
福井県ですか!
叩いてみたいですね。コロンボにもやってみてほしいです。似合いますよね。
ピアノにしてもマリンバにしても弦・木管にしても、楽器に使用される高級木材は総じて希少になり、価格も益々高騰傾向にあるようですね。
今、WBCで野球が最高に盛り上がっていますが、プロ野球選手が使用する木のバットの材料といえば、昔はアオダモ材が常識でしたが、現在は良質なアオダモは絶滅の危機にあり、大谷選手はバーチ材、村上選手はメイプル材のバットで代用しているそうですが、アオダモと比べると野球バットとしての短所がいろいろ有るようです。木のバットも、このところ、全体的に価格は毎年上昇し続けています。
食料以外でも、天然資源については心配の種が尽きませんよね。仰るように、それに便乗して儲ける業者の存在も、問題になってくるわけですが・・・。
何だかよく分からないところが色々ある作品です。私が一番腑に落ちないのは、ビルの屋上に構造物を作るときに開閉式の扉をあんな壁際に設置していいのか?というところです。
建築に詳しい方に教えていただきたいものです。子供があの上に乗って遊んでいたなら転落の危険があることは容易に想像できます。建築基準法?違反ではないですか?それとも大らかなアメリカでは個人の注意が優先され建物に規制はないのでしょうか?
最後に犯人が落ちる場面ですが私もあの楽譜の意味が当初分かりませんでした。ガブリエルは指揮棒への書き込みに返信するためにPCから楽譜を印刷しそれをタキシードのポケットに入れておいた。その楽譜は死体から発見されたのでガブリエルがバンガローにいてPCを入力したのは確実となる。
だとすると意識不明になったのはその後。その後に接触した人物は聞き込みからクロフォードしかいないとコロンボは考えたのでしょうか?(消去法) それなら薬物を飲ませたのはクロフォードしかいない。よってクロフォードが犯人・・・・・という論理展開をコロンボはしたのかな?
決定的な証拠はクロフォードの飲ませた飲料を押収し鑑定する。そこに薬物があれば一発で犯人は特定される。もちろん処分済みだろうからこれは証拠にならないでしょうが。
次の疑問は青酸カリでもないのにあんなに早く意識不明に陥るのか? 睡眠薬の濃度が濃ければ静脈麻酔薬ぐらいの即効性があるのかもしれないが、あれはちょっと早すぎる。
血液から検出されないというのも不思議です。代謝産物がどこかに残るのでは?
最後があまりにあっけないという不満は残りますが、新コロンボとしては題材といい殺害方法(日本なら建築基準法上あり得ないと思うが)といい十分に堪能できました。
いよいよコロンボも今日で終わり。 また半年後位にBSで再開してくれるといいのですがチャンネル削減が決まっているNHKではもう無理ですかね。
この作品で気になることがあります。
冒頭シーンでのこと。屋上で指揮の練習をするガブリエルに対して、警備員が注意します。この警備員、ロバート・デ・ニーロに似てませんか?。私は一瞬『本人!?』と思ってしまいました。年齢が若いので別人でしょうが、ホントによく似てる!!。“ そっくりさん ” かなぁ…。
多くの方が仰って居られるようにコロンボ作品の人気の秘訣の一味は「コロンボの人柄」なんですよね。
頭脳的にも「名刑事」であったことは確かでしょうが人柄がこれほど世界中で愛された(架空ではあっても)刑事さんも、なかなか無いでしょう。
こういう人気が無ければ、遺作となった次回も無かったハズです。
故人ピーター・フォークさんの名演あったればこその偉大な功績なんでしょう。
もう新作は無いでしょうが、なればこそ立場上でなく頭脳的な強敵を打ち崩し、「あんたに愚痴をこぼせていたらコロシは無かった」とホシに吐かせたかったなぁ…。
失礼しました。
「遺作」ではないですね。
あしからず。
役者さんの演技力が残念だった、ということでしょうか?
もちろん、犯人役のビリー・コノリーさんのことです。風貌は決まってるのに、役に追いついていけない。
ラストの屋上のシーン、役者コノリーの微妙な表情、仕草、言葉に繊細さがなかった。単に大根だったのでは?
同じシナリオでも、芸達者なら、視聴者を納得させる絶妙なカタルシスを与えてくれたかもしれません。
落語と同じだと思います。
名作噺も、噺家次第でつまらなくなる。
いえいえ、演技の方ではなく「役どころ」の方ですね。
なんというか頭のネジの吹っ飛んだようなポンコツ的カルさとでも言いましょうか。
殺しちゃったら「利用」もできなくなることなどまるでアタマにない。
アタシ的に言うと「ザンネン犯」だった訳death。
ぼろんこ様のブログ本文から、
>「あまりに多くの音符」というのは、クロフォードの作風を意味しているのでしょうか?
この時のクロフォードは、いい曲は書けても、あの映画監督が要求する「引き算の美学」のセンスを欠いていたんでしょうね。その点に限っては私も共感出来る部分が確かにありました。
10年ほど前、NHKの某大河ドラマの音楽を担当した某作曲家が、名誉なことだと張り切って、力の入った見事な曲ばかり膨大に書き過ぎて、番組終了後の反省の弁で、
「蕎麦屋の出前をするのにベンツ使うみたいなもんだと(局の制作者側から)言われた。プロなら、もっと力を加減する必要があった。出前の時は「原付き」でいいとか・・・、蕎麦の出前を頼むたびに家の前に毎回ベンツを横付けされたら、たまんないですよね」といった主旨のことを書かれていたのを、ちょっと 思起しました。
犯人が被害者にもった薬「セコバルビタザール」とかいうの、もしかしたら「歌声の消えた海」で犯人が自分に使った薬と同じやつじゃないですかねえ。
事件当日、ガブリエルがクロフォードの部屋で脱いだスニーカーは黒でした。
しかし、事件後にコロンボが押収したスニーカーは白です。
ガブリエルはクロフォードの部屋に、白のスニーカーを常に置いてたのかな?
クロフォードが黒のスニーカーを処理する場面も無いですよね。
どうやら脚本のミスのようです。
お初にお目にかかります。かなりの発見かもしれないのでお伝えいたします。
中盤ほど、コロンボが一人で歌いながら、エレベーターで途中まで上ったシーンです。
右端にガッツリとスタッフが映り込んでいるように見えます。おそらくボタンのアップを撮るためのスタッフかと。
どなたからの指摘も無いので、もしかしたら違うかも知れませんが、よろしければご確認ください。
いずれまたコメントするかも知れません。
確認したい、、
カーシー様
初めまして。私も、初コメントさせていただきます。
本日初見でしたが、めっちゃいました笑
気になって、どなたか真相をコメントされてるかなー?と思ってこちら確認しに来たらこのコメントがあり、返信が少ないようなので書き込ませていただきました!
めっちゃガッツリ映ってましたよね!(≧∀≦)1人で上がっている、という設定のはずでしたよね??
製作の舞台裏を記録や証言で描いた本”Shooting Columbo”によると、ピーター・フォークの盟友パトリック・マクグーハンが前作「復讐を抱いて眠れ」に続いて関与することになったものの、さすがにマクグーハンも2作続けて犯人を演じるのはまずかろうと考えたそうで、本作には監督として関わることになったそうです。
脚本のジェフリー・ケーヴァとはマクグーハンの別名ではないか、とみる説もありますが、同書によれば、ケーヴァはユニヴァーサルの若い製作アシスタントで、この作品にどのように関わっていったか、また後述するマクグーハンによる脚本の書き換えに意気消沈したさまが記述されていて、それが正しければ、2人は別人ということになります。
そしてマクグーハンは、例によって脚本の大幅な書き換えを行い、最終的にケーヴァとともに本作の脚本家として名を連ねることになりました。コロンボが犯人を車で延々とエスコートする場面、またオーケストラでいろいろな”曲当て”をする場面、いずれも彼の発案だそうです。
またケーヴァの案では、建物の中にある古いエレベーターが動くと一定の間隔で電気的なクリックが発生し、これが手がかりのひとつになるはずでしたが、マクグーハンはこれをボツにし、代わりに単純な騒音に書き換えました。そうした手がかりを無くしていった書き換えの結果が、皆さんにも不評のあっけないラストシーン。本作に限らず、マクグーハンは監督したどの作品も”改悪”したという印象を持たずにはいられません。
ラストシーンといえば、私が見て気になったのは、背景の空の色調あるいは雲の量がカットによって違って見えることです。これが私の錯覚でなければ、異なる天候の日にロケした映像を組み合わせたことが明白ということになります。もちろんこうしたことは撮影や編集ではふつうに行われているはずですが、何とかならなかったのでしょうか。
”Shooting Columbo”によれば、「復讐を抱いて眠れ」が視聴率的に振るわなかったため、続く本作は放送が棚上げされました。ようやく2001年にオンエアされたところ、そこそこの視聴率をあげたため、ABCはもう1作のチャンスをピーター・フォークに与えたということです。「復讐~」の方がずっと優れた作品と思われるだけに”視聴率は水もの”と思いますが、そのおかげで、かなり良い出来と感じる最終作の「虚飾のオープニング・ナイト」が生まれた、というのが「奪われた旋律」の功績、ということになるでしょうか。
tempus fugitさん、コメントありがとうございます。
楽しく読ませていだきました。たいへん勉強になりました。
私は「復讐を抱いて眠れ」も「奪われた旋律」も
リアルタイムでは見ておりません、
一挙再放送で連続的に見てしまいました。
今では両作品とも、リラックスして見られる新シリーズとして、
まぁまぁのお気に入りです。
tempus fugit 様、いつも”Shooting Columbo”による深い解説をありがとうございます。
>私が見て気になったのは、背景の空の色調あるいは雲の量がカットによって違って見えることです。これが私の錯覚でなければ、異なる天候の日にロケした映像を組み合わせたことが明白ということになります。
このことについて、特にコロンボがデガルモ刑事と警備員と3人で屋上のエレベーターの扉をこじ開けるシーン、扉からのぞき込む3人をしたから見上げるカットでの紺碧の空との違和感が大きいです。影が斜めに少し長く伸びているし、光が人工的な感じがするし、恐らくスタジオで撮ったのではないでしょうか。そして印象的な青空を見上げるシーンを挟んだのでは?スタジオで撮ったなら照明係への指示がトンチキ過ぎますね・・・
とは言え、この作品はゴーストライターの抹殺とか音名で交わすメッセージとか、初見の時からすごく印象が強かったと見えて、ずっと記憶に残っていた作品です。印象に残る音楽は劇伴としては2流的な話も、ほほぅと腑に落ちたものです。何なら旧作時代の制作かと思っていたくらい。なので、結構好きかも。
tempus fugit 様
ご無沙汰しております。
>ラストシーンといえば、私が見て気になったのは、背景の空の色調あるいは雲の量がカットによって違って見えることです。これが私の錯覚でなければ、異なる天候の日にロケした映像を組み合わせたことが明白ということになります。もちろんこうしたことは撮影や編集ではふつうに行われているはずですが、何とかならなかったのでしょうか。
ご指摘の件は、私も初見時から気になっておりました。
『刑事コロンボ』では新旧シリーズともに、時々そうした拘りのなさや緩さが画面作りに垣間見えますよね。このころの米国のTVドラマでは、日本では「スクリプター」と呼ばれている職種の人に、あまり権限がなかったのかなあ、などと想像したりもするのですが、どうでしょう?
この作品は好きな話の10傑に含まれます。
クロフォードが楽団員にコロンボを紹介するシーンで、
「ピザを空に浮かべたら…♪」って歌を演奏します。
この歌が何て言う歌かご存知でしょうか?
歌えるのに題名がわからず気になる歌の10傑に含まれます(笑)💦
題名は “That’ Amore”でHarry warren作曲、Jack brooks作詞で1953年にディーン・マーティン/ジェリー・ルイスの映画”The Caddy”の中で歌われポピュラーになったようです。ディーン・マーティンの定番曲なので日本語タイトルは調べてくださいね。
おおだすかりさん、本作に1票投じます。
憎めないお人柄の、作曲家クロフォード先生に意見を申し上げたいです。
スランプになられて、権威ある賞(アカデミー賞の作曲賞?)を受けた代表作『殺人者』などの劇伴音楽を弟子に書かせたのがバレるぐらいで、何で殺さなきゃいけなかったのですか? 過去、先生の溢れ出る作曲の才能は、弟子に作曲させるようになった前から、もう世間からもプロからも高く評価されいて、大成功を収めてこられたじゃないですか。ここは潔く正直に一時インスピレーションが枯渇した苦しい経緯を公表されるべきだったですね。そうすれば、弟子に書かせた作品の賞は取り消され罰は受けても、やがて世間は許してくれたかも知れません。
しかし、先生もよくご存知のように、ベートーヴェンや、先生がお好きなチャイコフスキーにしたって、曲が書けない深刻なスランプに陥っても、それを乗り越えて、より高いレベルの傑作を数多く残しています。
ベートーヴェンは「傑作の森」の後の長いスランプ時期を乗り越えて、その後、「第九」や、深淵な、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲などの傑作をいっぱい書いています。
チャイコフスキーの曲の中で最も人気があり、今日コンサートで頻繁に採り上げられる曲のひとつ、交響曲第5番は、曲が完成した後、チャイコフスキーは自己嫌悪で落ち込んで、当時パトロンであった、フォン・メック夫人にあてた手紙で「私の新しい交響曲をペテルブルグで二度、プラハで一度演奏した結果、この曲が不成功であるという確信に達しました。ここには何か余分で雑多なもの、不誠実でわざとらしいものがあります」と苦しい胸の内を明かしています。
でも、その後自信を取り戻し、やがて、最高傑作、バレエ音楽「くるみ割り人形」「交響曲第6番(悲愴)」などを完成させています。
映画監督と作曲家が意見対立するのはアルフレッド・ヒッチコックとバーナード・ハーマンの昔の話を持ち出すまでもなく、今だって日常茶飯事です。「Murder With Too Many Notes」(音符が多過ぎる殺人)と言われても、そもそも、そのお年で音符がたくさん書けるのは、書けないよりもは、とても良いことでした。作曲家がせっかく映画のために沢山書いてきた劇伴音楽を、「書き直して!」「もっと削って!」と命じるのは、映画監督が行う当然の仕事です。
弟子にこっそり曲を書くのを手伝わせるのも、大きな声では言えませんがよくあること。「ウェストサイド・ストーリー」(映画版 1961)の作曲が、バーンスタインだけでなく、実は、もう一人の作曲家、ソンドハイムとの共同作業だったのも、近年になって公に明らかにされた事実です。やはり先生は、弟子とよく打合せをして、印税を多く払い丸く治めるなどの解決策を、もっと交渉するべきでした。
最後にコロンボ警部にも僭越ながら一言申し上げたいです。警部は、何で音楽の知識が急に乏しくなってしまわれたのですか? チューバも吹けて、ピアノも少しは弾けたというのに・・・。だけど、高所恐怖症だけは治られたんですね。
ということで、いろいろ考えさせて楽しめた回でした。
はじめまして、こんにちは こんばんは
またBSで再放送が始まりましたね
コロンボは何度見ても飽きないですよね
さてこの作品、私もラストの犯人の追い詰め方が意味不明で、ずっとモヤモヤしていました
コロナ禍もあり少し時間があったので何度も見返してみて気づいたことがありました
たぶん多くの方が不可解だったのは、あの恋人同士の音符のやり取りがなぜ犯人を追い詰めることになったのかという点だと思います
ポイントは音符のほうではなく手紙の最後のちょっとした一言にあったのです
そこには「”Always Gabe”常に変わらぬガブ」と書かれていました
これは犯人の「人生が変わって習慣を変えた」から革靴を履いていたんだろうと言う主張を真っ向から否定します
つまり被害者が革靴を履いていたのは自分の意思ではないことが明らかに示されたのです
これにより、靴を履く前つまりバンガローにいる間に睡眠薬を飲まされたことが決定的となり、バンガローの持ち主である犯人もあっさり観念したのだと思われます(とっくに観念していた気もしますが)
コロンボがあの一言でスッと終わらせたのもそれだけ決定的で犯人にトドメを刺す言葉だったからと考えれば納得できます
なお翻訳された方は事件解決のキーワードだと理解されていたから「常に変わらぬ」と訳したのですね(前半で本人が手紙を書いてるシーンでは訳が違っていますが、alwaysの前にピリオドがあるためalwaysはas alwaysの意味でGabeだけに掛かってると気づかれたのだと思われます)
この認識で作品を見返してみると転落現場で見つからなかった「指揮棒」というたった1つの手掛かりが次々に別の手掛かりを導いて最後に全てが収斂するという、よく出来た作品だなぁと考えを改めてしまいました
以上で自分なりにはスッキリしたのですが、いかがでしょうか?
銀狐さん、コメントありがとうございます。
楽しく読ませていただきました。
私の考えでは”Always Gabe”は決め手とまで
言えないけど、この作品を綺麗に仕上げている
重要な要因だと思えます。
それにしても、何回見てもフィンドレーは
あっさり観念しすぎだけど(笑)
コロンボの車がガス欠になって部下にガソリン持ってこさせたシーンで、
「ガソリン入ってましたよ」と部下がいうくだりをわざわざ視聴者に見せるのはヤボですね。
コロンボファンならこれもコロンボの作戦じゃないのかと推測するのが面白いのに。
フィンドレーの芸風が最初から吉田鋼太郎にみえてしまい、吹き替えまでそうなんじゃないかと。全く別の意味で楽しみました。ご指摘されているように、ラストがあっさり過ぎる。しかし、あれ?と思って見直したり、こちらの記事やコメントで確認するたのしみがまた楽しみ。一粒で何度も美味しいのがコロンボでした。先日7/28で最終回でしたね。寂しくなりますな。
今回のNHK BSPは「佐々木勝彦」さん(日本テレビ版)のようです。
ドラマの後半でクロフォードがリッター監督から突き放される場面は、「魔術師の幻想」で店のマネージャーから突き放されるサンティーニを思い出しました。
どちらも、コロンボから「彼は犯罪者だから逮捕します」と知らされているのでしょうか?
マネージャーも監督も、あまりにも態度が豹変するので、そう感じました。
クロフォードは才能の枯渇に以前から苦しんでいたが、ガブリエルを殺害して(失って)、埋める手段も無くなり、諦念の境地に成りつつ有ったのでしょうね。
だからアッサリ観念した・・・。
「愛の旋律」をフィーチャーして、もっと視聴者にインパクトを残していれば、観念の場面は印象深くなったと思います。
全体的にアッサリしすぎ。マクグーハンも諦念の境地??
あまりに暑いんで納涼ネタを一つ。皆さん巧いコメントしてらっしゃいますね。作曲ネタのエピソードで、あまり出来が良くないのは「拍子抜け」・・・失礼しました。でも凍りつくぐらいでちょうどよかったでしょ?。
戦慄(旋律)を覚えました!!
お二人のコメントのおかげで、凍りつくぐらい涼しく過ごすことが出来てます!!
ありがとうございます!!
おミソレしました!!
いろいろと疑問のある話ですが、一番分からないのは愛の旋律の楽譜がなんで犯人特定の決め手のひとつになったのか。良い解釈お持ちの方、教えてください。
デガルモ刑事はセイウチに本当に似ていて可愛いです。
コロンボがエレベーターで見つけた指揮棒に書かれた楽譜を見て、手紙と照らしあわせて「レベッカ&ガブ」と読み取り、持ち主を特定したことを屋上でのレベッカさんのキーボード演奏でドラマチックに演出して、クロフォード氏の言い逃れの余地を失くし、愛の旋律によって後悔に追い込んだということだと思います。手紙の楽譜が二段になっていたのは二人の愛のデュエットを表していたと思います。指揮棒の楽譜だけで持ち主を特定できるはずなのでレベッカさんの協力を仰いだのでしょう。
なおREBECCAの音名への変換はイタリア語式、ドイツ語式、英語式が混じっています。R→レ(ドレミのレ、ドイツ語式ではDになります)、B→シ(ドイツ語式ではBはシ♭、シはHを使います)GABRIELは音名に変換しきれないので愛称のGABE(ガブまたはゲイブ)を使っています。
ありがとうございます。愛の楽譜と指揮棒の楽譜は同じ、つまり指揮棒は被害者のもの。指揮棒はエレベーターにあり、屋上の隙間は狭くて指揮棒はエレベーターに落ちる事は不可能。よって被害者はエレベーターで運ばれた。そんなこんなでお前が犯人だあきらめろって事ですね。大変よく分かりました。
最後の楽譜の音名に名前が含まれているとは全然気づかなかったです!
ここ、ドラマの中でもう少し深堀りしてもらえるといいエピソードになりそうだったのに。
あと、ぼろんこさんが書かれている、4/4に納まっていないって書かれていて、もう一度最後の場面を見直したらホントでした笑
マクグーハン作品ということもあり、新シリーズの中ではまあまあ評価も高いようですが、残念ながら私はあまり楽しめませんでした。殺害シーンまでがダラダラと長いわりに、意味がよく分からない犯人宅へのドライブがあったり、最後の屋上での問い詰めもエラくあっさりで、もはやこのドラマが「刑事コロンボ」である意味すら見出せなくなりました。
話は逸れますが、レベッカがガブリエルに書いた手紙は綺麗な筆記体で書かれてましたね。最近はアメリカでも筆記体はメジャーじゃないとの理由で日本の英語授業でも習わないそうですが、この作品の2000年の頃はまだ筆記体が生きてたんだとしみじみ思いました。
本作は、監督マクグーハンに脚本マクグーハンとジェフリー・ケーヴァの共作、
前作「復讐を抱いて眠れ」では、犯人役兼監督兼脚本(ジェフリー・ハッチャーはマクグーハンのペンネームらしいので)。
刑事コロンボの犯人役としてのマクグーハンは、毎回演じ分けが素晴らしい出来ですし、二刀流ならぬ、三刀流、四刀流・・・それ以上?
本作はクラシック音楽と映画ファンの私にはお話しの結末が拍子抜けで残念なものの、非常に楽しめた回でした。「奪われた旋律」と初期の名作「構想の死角」と佐村河内事件を題材に、上手に混ぜてリメークしたら、とても面白い新作が生まれるのではないかと、ふと思いました。
私も犯人の音楽家を見てすぐにあの佐村河内氏を思い出しました。尊大な態度やふてぶてしい物言いなど、
潰された若き才能が哀れでなりません。
風采が立派な俗物の音楽製作者と腰巾着呼ばわりされる小柄でお人よしのゴーストライターの組み合わせから、佐村河内氏と新垣隆さんを連想した人がやっぱりいましたね。新垣隆さんが、刑事コロンボのこの作品を観ていて、自分も今に抹殺されるのではないかと恐怖を感じて、ゴーストライターを名乗り出たのではないかなんて考えました。
音楽がたくさん使われているのが楽しくて、「サイコ」の不協和音の音楽は「古畑任三郎」での犯人の小細工のシーンの音楽を思い出しました。「1812年」は細かい音符が正確でハリウッドのオーケストラが弾いているのかちょっと気になります。
指揮者が殺人をする回が旧コロンボにありましたが、指揮姿がサマになっていませんでした。クロフォード氏の指揮は「まだ結婚できない男」の阿部寛や「のだめカンタービレ」の玉木宏のレベルには十分に到達していたと思います。
殺害以前に指揮棒や手紙に音符が見えたので、重要なメッセージが込められていると注意してみましたが、愛のメッセージに過ぎなかったのでちょっと拍子抜けしましたが、最後の場面は俗物が才能あるカップルを引き裂いたんだぞ!という告発になりながら、明るく締めくくったのが良かったのかもしれません。
コロナ禍の「コロンボ」全作放映もいよいよ大詰めですね。
コロンボの運転するプジョーに先導されたらどんな酔いも醒めますわな(笑)しかし「コロンボ」の飲酒、喫煙シーンを観る度、本当に時代は隔世の感がありますねえ。
実はコロンボ警部、新シリーズのはじめの方は、
運転が荒くなり、スピードもかなり出しています。
本作の頃はかなり年をとって、のろくなったかな笑
コロンボの車が到着するシーンでいつもガツンと大きな音がするのが気になっています。爆発音みたいで到着寸前にまた事件かとハッとします。なんの音なのでしょう?オートマ車で無さそうなのでギアを変える際にどこか引っかかるんでしょうか?日本の車検ならまず通りませんね。
「バックファイア」じゃないか?と、いう人がいます。
バックファイアでBAM!となったときにマフラーや排気管が緩んでるとガツンとくるだろうということでした。
コメ記入からだいぶ経過しておりますので、失礼でしたでしょうか?
あしからず。
こんにちは
いつも「刑事コロンボ」鑑賞後の案内書として大切に拝読致しております。
ひとつ気づいたのですがガブリエル役の俳優さんはチャド・ウィレットさんではないでしょうか。
チャールズ・シオッフィさんとの表記がありますが、多分シドニー役の方とお名前が似ていますので気づきました。
確かに間違っておりました、修正いたしました。ありがとうございます。
このエピソード、前半はとても引き込まれたのですが、後半はちょっと首を捻るシーンが多かったです。
犯人が映画音楽の巨匠という設定やエレベーターを使った殺害方法などは新鮮でしたし、殺人に至るまでの経緯は、なかなか面白かったです。
コロンボがクロフォードに最初に疑いを持ったきっかけは、おそらく被害者の家の鍵だけ、見あたらなかったからではないでしょうか。バンガローに自由に出入り出来るのは、クロフォードだけですから。
その後の展開で、ちょっと不自然な点がいくつか引っ掛かりました。
いちばん違和感を覚えたのは、殺害後、タキシード姿の被害者をバンガローからホールの屋上まで、誰にも気がつかれずにクロフォード1人で運んでいたことです。何か大きな箱(例えば楽器ケースのような(笑))が無ければまず不可能だと思いました。
犯人を車で誘導して家に送る時に、わざとノロノロ運転をした挙げ句ガス欠したとお芝居したシーン。
コロンボの目的は何だったのでしょうか?特にこれといった収穫は無かったようですが…
犯人クロフォードが最後にあっさり認めてニコニコして連行されていくのも、どうも…殺人を犯してまで、守りたい地位だったんじゃなかったんですかね〜
ラストシーン、ピアノで奏でられた~ガブより最愛なるレベッカへ~とかいう旋律は何だったの?
『殺人者』の楽章のどこかで使われてた的なこと? ながら見で見たせいかよく分からなかった。dvd借りパクされたせいでもう一回見てたしかめることもできゃしない…
私はこの作品、嫌いではありません。最後の決め手の部分は、すこし寂しいけれど。音楽を扱った作品ということで、きれいな雰囲気をもった作品です。
なんでみんなそこまでリアリティにこだわるんだろう。リアリティを追究しすぎるとドラマにはならないよ。
そんなにリアリティがいいなら現実の犯罪を観ればいいさ。
この回の最大の疑問というか不満があります。
最後、クロフォードは観念し犯行が明らかになったワケです。
この時、目の前にいたレベッカは、恋人を殺されていながら、
なぜ怒りを爆発させないのでしょうか?。
眠けマナコの演技は抜群だったのに、怒る演技は不得意なのかな?。
穏やかな最後は悪くありませんが、とても違和感が残りました。
BS-TBSで視聴終了。貸衣装屋の店員さんがアントニオという名前。出て来ましたねえ『アマデウス』ネタ。私も「金曜」で観た時は気付きませんでした。
コロンボが指揮棒を振り回すと思い出すのは、吹奏楽部で顧問の先生に指揮棒の持ち手で叩かれたこと。体罰だーと叫ぶ気はありませんが(苦笑)
”BECCA/GABE”という名前の綴りと音名を掛けたメッセージはバッハ(J.S.BACH)がシのフラット・ラ・ド・シのナチュラルを続けた”B-A-C-H”と続く音形で変奏曲を作りR.シューマンの”ABEGG”さんの名前を使った変奏曲という具合に昔からある、にわかには展開出来ないアイディアと思います。当話のアイディアというか材料の根源にあったものでしょう。
脚本家が名案と思った材料であったとしても、当話の脚本は実際にはマクグーハンがかなり書き直し、コノリーとマクグーハン監督の議論で撮影中断になりコノリーが酒を飲んで酔っ払うといったトラブルがあったそうで、飲酒のせいか常時ゴキゲンに見える犯人のキャラクターが掘り下げられない、過去の才能や名声の片鱗もうかがえないといった残念要素の数々を生んでいるようです。
それで”This Old Man”で締め括られる結末でしょ?『Xファイル』の悪役チオフィ演じたリッター監督(吹き替えは小林勝彦さん…ダブルかつひこ笑)は最近の若いモンは…とグチっていたけれど劇中劇も随分トホホで古臭くB級な造りに見える。ゴーストライター話はスピルバーグ監督の「構想の死角」の焼き直しに見えるし、当話と同時期『ジェシカおばさんの事件簿』や『新 ペリー・メイスン』でも似たような話がありました。前者は1時間枠だし後者は主要人物を増やしアイディアをもっと詰め込んで2時間枠を支えており、両方踏まえ較べてみると当話の密度の薄さは気になるもの。エレベーターで屋上に機関銃とカメラを運んだって何時の時代の話か。これはもう「我ら老害!若いモンには負けん!」という、制作に名を連ねたピーター・フォークとマクグーハン父の自虐的メッセージじゃないかと思う程です。
吹き替え版は翻訳家だけでなく演出家も交替した事を反映したのか、石田太郎さんのコロンボは迷走?ブレブレ?カン高く上ずるかと思えば低く意地悪くレクター博士っぽくなる場面もある。まさか“クロフォードVSレクター”という意図では(トマス・ハリスかよ)
ただ石田さん。ラストの歌声は調子良く、もっと楽しく歌って聴かせて欲しくなる、良い場面でした。
>名前の綴りと音名を掛けたメッセージ
ドミートリイ・ショスタコーヴィチが、自身が置かれた境遇を分かる人だけに密かにほのめかすために、暗号的に多くの自作中に忍ばせたDSCH音型なども有名ですよね。
クロフォード証言:ガブに最後に会ったのは、前日夕刻バンガローで。
当日初めて見たのは、道路に横たわる姿だという。
レベッカ証言:当日!、指揮棒のプレゼントを渡した。
ガブは指揮棒を持って、バンガローへ行った。
この指揮棒は、愛の旋律が書かれた、この世に唯一無二のものだった。
落下死が事故ではなく、睡眠薬を飲まされての他殺であることが明確に
なった以上、バンガローから屋上までの行間を埋めることのできる人物は、
明快な殺害動機を有するクロフォード以外にはいないことになる。
レベッカのガブへの愛の旋律が、犯行の真相を暴きだしクロフォードを
観念させた。
傷ついているレベッカに「では、いい夢を・・・」だって。
このコロンボ、バッカじゃないか!。
別の場面では、ガッツポーズなんかもしちゃってねえ。
まさに、老化と劣化と退化が同時進行だ。
デガルモ刑事:せいうちに似ている→ホントだ!!!
クロフォードは、ガブ本人不注意の事故による死亡を想定して仕組んでいた。
しかし、以下の状況から、事故死は否定された。
・腕の傷から睡眠薬が検出された→落下時は意識不明だった
・もし意識があれば、エレベータの音を気付くはず
・意識不明のままで転落したので、悲鳴をあげなかった
・2センチ大きい靴を履いていたのは、自分の意志で履いてない証拠
・指揮棒が地下へ落ちていたのは、事故を前提に犯人が握らせていたことが明白
・クロフォードがガブに最後に会ったのは、事故前日だと言う
・ガブは指揮棒を持って、当日クロフォードのバンガローへ行った事実がある
動機から見れば、
・カギを盗みオリジナルの楽譜盗む、睡眠薬で眠らせ殺害するということには、
共通の動機が明白。つまり、その楽曲で賞をとった人だ。
以上、繋ぎ合わせて総合すれば、クロフォード犯行の強力な状況証拠になる。
かなり強く説得力のある状況証拠と殺害動機によって観念した。
副題についてアプローチを。
”too many notes”は作曲家サリエリのモーツァルトに対する嫉妬を軸とした映画『アマデウス』に出て来る台詞です。映画の後半凡庸なるサリエリはモーツァルトに「死者のためのミサ曲」を書かせてから殺害し、モーツァルトを悼んで自分が書いた作品として発表しようと画策します。モーツァルトをゴーストライターとして使うという企みとも言えます。当話はこのような所から発想されたのではないでしょうか。
ついでに。『アマデウス』がテレビ朝日で放映された際翻訳したのが額田やえ子さん。コロンボに逮捕された日下武史さん、金内吉男さん、羽佐間道夫さんなど声の出演者達の名演と相俟って非常に格調の高い吹き替えになっていました。
蛇足ですが金内さん、新コロンボの石田さん、当話のWOWOW版吹き替えで犯人役だった堀勝之祐さんに共通する役柄があります。『羊たちの沈黙』のレクター博士です。日下武史さんのレクター博士も聴いたことあるなあ。
なんで観念したのか、全然分からない。
無駄が多く、必要な過程が少なく、落とし方も観念の仕方もダメ。
終わりは、やや微笑ましいのが救い。
タップおばさん>「終盤になって一気に失速」ですね確かに。将棋番組でもたまに、まだまだ勝負はこれからって時に投了したりします。そんな感じ。
るてなんとさん>「ガブリエルが転落死するその瞬間に居合わせたご婦人を演じた方こそ、マクグーハン氏の次女、アン・マクグーハン」ですか!それは知らんかった!
WATSON,Tさん、お返事が遅くなりました。4年越しです(笑)「新シリーズのコロンボは半ば超人と化してます」には爆笑しました。
終盤になって一気に失速した、という印象。
結局、殺人の証拠は解明されていない。
なのに何故犯人は自供したのか?
一言か二言か、犯人が諦めるに至ったセリフを描くぐらいすべきです。
余りにも消化不良。
この作品は、前作「復讐を抱いて眠れ」同様、マクグーハン氏の娘さんが出演されているエピソードでもあります。
ガブリエルが転落死するその瞬間に居合わせたご婦人を演じた方こそ、マクグーハン氏の次女、アン・マクグーハンだったのです。
「復讐~」では長女キャサリンが出演されていましたが、まさか次女の方も出演されていたとは知りませんでした。
こちらを拝読してからもう1度見直しました。
>容疑者特定の瞬間が見えない
クロフォードがガブリエルの亡くなった状況を尋ねなかったからだと思います。屋上から落ちたことは分かっていたとしても事故、自殺、殺人の可能性があるのに彼は何もコロンボに尋ねていません。つまり彼はガブリエルが亡くなった経緯を知ってる→犯人だということになります。
ただ容疑者を特定するには弱い要素ですよね。新シリーズのコロンボは半ば超人と化してます。そこが本エピソードに限らず旧シリーズより緊張感に欠ける原因の一つでしょう。
ういぐるさん、コメントありがとうございます。
「虚飾のオープニング・ナイト」はまだ見ていません~。明日の夜、ゆっくりみます。「奪われた旋律」で、いきなり「殺人課」ですよね。そですね~、新シリーズでは特に、矛盾が多いです。この場合もそうですよね。屋上から転落死したのに、数々の大物を逮捕したロス警察のベテラン刑事が初動捜査に呼ばれるとは、強引ですよね。「だまされたコロンボ」の時には、ロンドン警視庁の友人からの依頼ということで、失踪事件の捜査に動いています。「復習を抱いて眠れ」も不思議です。
シリーズ存続のため、でしょうかね。仕方ないことだと思い、追求してません(笑)
なにせ69話も見られたんですからね。
いまBS2での最終話「虚飾のオープニング・ナイト」を見終わって、他の皆さんはどう見ておられるのかなと検索していて、こちらに来ました。楽しいHPですね、これからじっくり読ませていただきます。さてこの「奪われた旋律」ですが、This Old Man なんてよくご存知ですね、ありがとうございました。ただこの話、当初は転落事故のように始まったんですから、はなからいきなり「殺人課」が呼ばれて来ているのはおかしいのでは。古い話なら「なぜ殺人課が?」と犯人が狼狽する場面がよくありましたよね。その辺の設定が、この当たりになるともうきちんと詰められていないんでしょうか?