- フィンドレー・クロフォード「ベントレー・ターボ・R」
- ガブリエル・マッケンリー「フォルクスワーゲン・ビートル・タイプ1・コンバーチブル」

天才作曲家が実は無能で脳天気

容疑者特定の瞬間が見えない
しかし警部はいったいどのタイミングでクロフォード氏を犯人とにらみましたかね~。狂言ガス欠をしたくらいなので、その前ということになりますが、私はそれほど怪しく感じませんでした。
序盤が延々と続き、急に投了(負けを認める)シーン
コロンボが犯人を徐々に追いつめて行く雰囲気もなく、将棋で言えば長い序盤が延々と続き、急に投了シーン…という雰囲気。しかも、えらく楽しそうに犯行を認めているし。普通だったら認めません、殺人容疑ですから。「復讐を抱いて眠れ」も同じく、こんなにあっさり片付けないでほしい気がします。演出のパトリック・マクグーハンの好みでしょうか。
コロンボ作品のラストシーンは、犯人がじたばたしながらも完全に敗北を認めざるを得ない…ってのが美しいと思ったりしますが、今回は動機と状況証拠だけで逮捕してます。「音楽クラブのある刑務所があったら紹介してくれ」が自供ですね、楽観的な人です~。
現実逃避型の自供か?

This Old Man

またまたマクグーハンの娘

今回もデガルモ刑事が活躍

原題「Murder With Too Many Notes」の直訳は「あまりに多くの音符との殺人」
「あまりに多くの音符」というのは、クロフォードの作風を意味しているのでしょうか?映画「アマデウス」でモーツァルトが皇帝から「音符が多すぎる」と指摘され「自分の曲には必要な音符しかない」と反論した場面を思い出しました。音符が多いというのは、洗練されていないような意味にもとられ、クロフォードの作風が古臭いことを比喩しているのだとも感じます。それに対しガブリエルの曲は映画を引き立たせる最小の音符で構成されていたとか。
音符とメモ
音楽には一般的に「CDEFGAB」「ドレミファソラシ」のNoteがあるのですね。
「G・A・B・E」「B・E・C・C・A」
「B・E・C・C・A」「G・A・B・E」
というメロディ(音符・Notes)を愛する人に渡した手紙(メモ・Note)。これはとても綺麗なテーマだと思えます。しかも「Too Many Notes」ではなくシンプル。よく見ると4/4の楽譜に納まっていませんが(笑)
私の好きな「ペンギン・カフェ・オーケストラ」が敬愛する作曲家「ジョン・ケージ」に捧げた曲「Cage Dead(1993)」では「C・A・G・E」「D・E・A・D」のコードあるいは音符を順に弾く構成でできています。本作のヒントになっているでしょうか?
監督:パトリック・マクグーハン
脚本:ジェフリー・ケーヴァ、パトリック・マクグーハン
フィンドレー・クロフォード:ビリー・コノリー(声:佐々木勝彦)
ガブリエル・マッケンリー:チャド・ウィレット(声:森岡弘一郎)
レベッカ:ヒラリー・ダナー(声:山田里奈)
シドニー・リッター:チャールズ・チョフィ(声:小林勝彦)
デガルモ刑事:リチャード・リール
マーシア:アン・マクグーハン
加筆:2024年9月5日
Murder With Too Many Notes の Notes は先述の通り音符と手紙ですね。
ベテラン作曲家の音符(あまりにも過多)と被害者と恋人との間の手紙を指しています。
コロンボシリーズでは一つの名詞に二つの意味を持たせることをよくやっていて The Most Crucial Game(アリバイのダイヤル)のGameは試合と獲物のダブルミーニングです。
何だかよく分からないところが色々ある作品です。私が一番腑に落ちないのは、ビルの屋上に構造物を作るときに開閉式の扉をあんな壁際に設置していいのか?というところです。
建築に詳しい方に教えていただきたいものです。子供があの上に乗って遊んでいたなら転落の危険があることは容易に想像できます。建築基準法?違反ではないですか?それとも大らかなアメリカでは個人の注意が優先され建物に規制はないのでしょうか?
最後に犯人が落ちる場面ですが私もあの楽譜の意味が当初分かりませんでした。ガブリエルは指揮棒への書き込みに返信するためにPCから楽譜を印刷しそれをタキシードのポケットに入れておいた。その楽譜は死体から発見されたのでガブリエルがバンガローにいてPCを入力したのは確実となる。
だとすると意識不明になったのはその後。その後に接触した人物は聞き込みからクロフォードしかいないとコロンボは考えたのでしょうか?(消去法) それなら薬物を飲ませたのはクロフォードしかいない。よってクロフォードが犯人・・・・・という論理展開をコロンボはしたのかな?
決定的な証拠はクロフォードの飲ませた飲料を押収し鑑定する。そこに薬物があれば一発で犯人は特定される。もちろん処分済みだろうからこれは証拠にならないでしょうが。
次の疑問は青酸カリでもないのにあんなに早く意識不明に陥るのか? 睡眠薬の濃度が濃ければ静脈麻酔薬ぐらいの即効性があるのかもしれないが、あれはちょっと早すぎる。
血液から検出されないというのも不思議です。代謝産物がどこかに残るのでは?
最後があまりにあっけないという不満は残りますが、新コロンボとしては題材といい殺害方法(日本なら建築基準法上あり得ないと思うが)といい十分に堪能できました。
いよいよコロンボも今日で終わり。 また半年後位にBSで再開してくれるといいのですがチャンネル削減が決まっているNHKではもう無理ですかね。
この作品で気になることがあります。
冒頭シーンでのこと。屋上で指揮の練習をするガブリエルに対して、警備員が注意します。この警備員、ロバート・デ・ニーロに似てませんか?。私は一瞬『本人!?』と思ってしまいました。年齢が若いので別人でしょうが、ホントによく似てる!!。“ そっくりさん ” かなぁ…。
多くの方が仰って居られるようにコロンボ作品の人気の秘訣の一味は「コロンボの人柄」なんですよね。
頭脳的にも「名刑事」であったことは確かでしょうが人柄がこれほど世界中で愛された(架空ではあっても)刑事さんも、なかなか無いでしょう。
こういう人気が無ければ、遺作となった次回も無かったハズです。
故人ピーター・フォークさんの名演あったればこその偉大な功績なんでしょう。
もう新作は無いでしょうが、なればこそ立場上でなく頭脳的な強敵を打ち崩し、「あんたに愚痴をこぼせていたらコロシは無かった」とホシに吐かせたかったなぁ…。
失礼しました。
「遺作」ではないですね。
あしからず。
役者さんの演技力が残念だった、ということでしょうか?
もちろん、犯人役のビリー・コノリーさんのことです。風貌は決まってるのに、役に追いついていけない。
ラストの屋上のシーン、役者コノリーの微妙な表情、仕草、言葉に繊細さがなかった。単に大根だったのでは?
同じシナリオでも、芸達者なら、視聴者を納得させる絶妙なカタルシスを与えてくれたかもしれません。
落語と同じだと思います。
名作噺も、噺家次第でつまらなくなる。
いえいえ、演技の方ではなく「役どころ」の方ですね。
なんというか頭のネジの吹っ飛んだようなポンコツ的カルさとでも言いましょうか。
殺しちゃったら「利用」もできなくなることなどまるでアタマにない。
アタシ的に言うと「ザンネン犯」だった訳death。
犯人が被害者にもった薬「セコバルビタザール」とかいうの、もしかしたら「歌声の消えた海」で犯人が自分に使った薬と同じやつじゃないですかねえ。
事件当日、ガブリエルがクロフォードの部屋で脱いだスニーカーは黒でした。
しかし、事件後にコロンボが押収したスニーカーは白です。
ガブリエルはクロフォードの部屋に、白のスニーカーを常に置いてたのかな?
クロフォードが黒のスニーカーを処理する場面も無いですよね。
どうやら脚本のミスのようです。
お初にお目にかかります。かなりの発見かもしれないのでお伝えいたします。
中盤ほど、コロンボが一人で歌いながら、エレベーターで途中まで上ったシーンです。
右端にガッツリとスタッフが映り込んでいるように見えます。おそらくボタンのアップを撮るためのスタッフかと。
どなたからの指摘も無いので、もしかしたら違うかも知れませんが、よろしければご確認ください。
いずれまたコメントするかも知れません。
確認したい、、
カーシー様
初めまして。私も、初コメントさせていただきます。
本日初見でしたが、めっちゃいました笑
気になって、どなたか真相をコメントされてるかなー?と思ってこちら確認しに来たらこのコメントがあり、返信が少ないようなので書き込ませていただきました!
めっちゃガッツリ映ってましたよね!(≧∀≦)1人で上がっている、という設定のはずでしたよね??
製作の舞台裏を記録や証言で描いた本”Shooting Columbo”によると、ピーター・フォークの盟友パトリック・マクグーハンが前作「復讐を抱いて眠れ」に続いて関与することになったものの、さすがにマクグーハンも2作続けて犯人を演じるのはまずかろうと考えたそうで、本作には監督として関わることになったそうです。
脚本のジェフリー・ケーヴァとはマクグーハンの別名ではないか、とみる説もありますが、同書によれば、ケーヴァはユニヴァーサルの若い製作アシスタントで、この作品にどのように関わっていったか、また後述するマクグーハンによる脚本の書き換えに意気消沈したさまが記述されていて、それが正しければ、2人は別人ということになります。
そしてマクグーハンは、例によって脚本の大幅な書き換えを行い、最終的にケーヴァとともに本作の脚本家として名を連ねることになりました。コロンボが犯人を車で延々とエスコートする場面、またオーケストラでいろいろな”曲当て”をする場面、いずれも彼の発案だそうです。
またケーヴァの案では、建物の中にある古いエレベーターが動くと一定の間隔で電気的なクリックが発生し、これが手がかりのひとつになるはずでしたが、マクグーハンはこれをボツにし、代わりに単純な騒音に書き換えました。そうした手がかりを無くしていった書き換えの結果が、皆さんにも不評のあっけないラストシーン。本作に限らず、マクグーハンは監督したどの作品も”改悪”したという印象を持たずにはいられません。
ラストシーンといえば、私が見て気になったのは、背景の空の色調あるいは雲の量がカットによって違って見えることです。これが私の錯覚でなければ、異なる天候の日にロケした映像を組み合わせたことが明白ということになります。もちろんこうしたことは撮影や編集ではふつうに行われているはずですが、何とかならなかったのでしょうか。
”Shooting Columbo”によれば、「復讐を抱いて眠れ」が視聴率的に振るわなかったため、続く本作は放送が棚上げされました。ようやく2001年にオンエアされたところ、そこそこの視聴率をあげたため、ABCはもう1作のチャンスをピーター・フォークに与えたということです。「復讐~」の方がずっと優れた作品と思われるだけに”視聴率は水もの”と思いますが、そのおかげで、かなり良い出来と感じる最終作の「虚飾のオープニング・ナイト」が生まれた、というのが「奪われた旋律」の功績、ということになるでしょうか。
tempus fugitさん、コメントありがとうございます。
楽しく読ませていだきました。たいへん勉強になりました。
私は「復讐を抱いて眠れ」も「奪われた旋律」も
リアルタイムでは見ておりません、
一挙再放送で連続的に見てしまいました。
今では両作品とも、リラックスして見られる新シリーズとして、
まぁまぁのお気に入りです。
tempus fugit 様、いつも”Shooting Columbo”による深い解説をありがとうございます。
>私が見て気になったのは、背景の空の色調あるいは雲の量がカットによって違って見えることです。これが私の錯覚でなければ、異なる天候の日にロケした映像を組み合わせたことが明白ということになります。
このことについて、特にコロンボがデガルモ刑事と警備員と3人で屋上のエレベーターの扉をこじ開けるシーン、扉からのぞき込む3人をしたから見上げるカットでの紺碧の空との違和感が大きいです。影が斜めに少し長く伸びているし、光が人工的な感じがするし、恐らくスタジオで撮ったのではないでしょうか。そして印象的な青空を見上げるシーンを挟んだのでは?スタジオで撮ったなら照明係への指示がトンチキ過ぎますね・・・
とは言え、この作品はゴーストライターの抹殺とか音名で交わすメッセージとか、初見の時からすごく印象が強かったと見えて、ずっと記憶に残っていた作品です。印象に残る音楽は劇伴としては2流的な話も、ほほぅと腑に落ちたものです。何なら旧作時代の制作かと思っていたくらい。なので、結構好きかも。
この作品は好きな話の10傑に含まれます。
クロフォードが楽団員にコロンボを紹介するシーンで、
「ピザを空に浮かべたら…♪」って歌を演奏します。
この歌が何て言う歌かご存知でしょうか?
歌えるのに題名がわからず気になる歌の10傑に含まれます(笑)💦
題名は “That’ Amore”でHarry warren作曲、Jack brooks作詞で1953年にディーン・マーティン/ジェリー・ルイスの映画”The Caddy”の中で歌われポピュラーになったようです。ディーン・マーティンの定番曲なので日本語タイトルは調べてくださいね。
おおだすかりさん、本作に1票投じます。
はじめまして、こんにちは こんばんは
またBSで再放送が始まりましたね
コロンボは何度見ても飽きないですよね
さてこの作品、私もラストの犯人の追い詰め方が意味不明で、ずっとモヤモヤしていました
コロナ禍もあり少し時間があったので何度も見返してみて気づいたことがありました
たぶん多くの方が不可解だったのは、あの恋人同士の音符のやり取りがなぜ犯人を追い詰めることになったのかという点だと思います
ポイントは音符のほうではなく手紙の最後のちょっとした一言にあったのです
そこには「”Always Gabe”常に変わらぬガブ」と書かれていました
これは犯人の「人生が変わって習慣を変えた」から革靴を履いていたんだろうと言う主張を真っ向から否定します
つまり被害者が革靴を履いていたのは自分の意思ではないことが明らかに示されたのです
これにより、靴を履く前つまりバンガローにいる間に睡眠薬を飲まされたことが決定的となり、バンガローの持ち主である犯人もあっさり観念したのだと思われます(とっくに観念していた気もしますが)
コロンボがあの一言でスッと終わらせたのもそれだけ決定的で犯人にトドメを刺す言葉だったからと考えれば納得できます
なお翻訳された方は事件解決のキーワードだと理解されていたから「常に変わらぬ」と訳したのですね(前半で本人が手紙を書いてるシーンでは訳が違っていますが、alwaysの前にピリオドがあるためalwaysはas alwaysの意味でGabeだけに掛かってると気づかれたのだと思われます)
この認識で作品を見返してみると転落現場で見つからなかった「指揮棒」というたった1つの手掛かりが次々に別の手掛かりを導いて最後に全てが収斂するという、よく出来た作品だなぁと考えを改めてしまいました
以上で自分なりにはスッキリしたのですが、いかがでしょうか?
銀狐さん、コメントありがとうございます。
楽しく読ませていただきました。
私の考えでは”Always Gabe”は決め手とまで
言えないけど、この作品を綺麗に仕上げている
重要な要因だと思えます。
それにしても、何回見てもフィンドレーは
あっさり観念しすぎだけど(笑)
コロンボの車がガス欠になって部下にガソリン持ってこさせたシーンで、
「ガソリン入ってましたよ」と部下がいうくだりをわざわざ視聴者に見せるのはヤボですね。
コロンボファンならこれもコロンボの作戦じゃないのかと推測するのが面白いのに。
フィンドレーの芸風が最初から吉田鋼太郎にみえてしまい、吹き替えまでそうなんじゃないかと。全く別の意味で楽しみました。ご指摘されているように、ラストがあっさり過ぎる。しかし、あれ?と思って見直したり、こちらの記事やコメントで確認するたのしみがまた楽しみ。一粒で何度も美味しいのがコロンボでした。先日7/28で最終回でしたね。寂しくなりますな。
今回のNHK BSPは「佐々木勝彦」さん(日本テレビ版)のようです。
ドラマの後半でクロフォードがリッター監督から突き放される場面は、「魔術師の幻想」で店のマネージャーから突き放されるサンティーニを思い出しました。
どちらも、コロンボから「彼は犯罪者だから逮捕します」と知らされているのでしょうか?
マネージャーも監督も、あまりにも態度が豹変するので、そう感じました。
クロフォードは才能の枯渇に以前から苦しんでいたが、ガブリエルを殺害して(失って)、埋める手段も無くなり、諦念の境地に成りつつ有ったのでしょうね。
だからアッサリ観念した・・・。
「愛の旋律」をフィーチャーして、もっと視聴者にインパクトを残していれば、観念の場面は印象深くなったと思います。
全体的にアッサリしすぎ。マクグーハンも諦念の境地??
あまりに暑いんで納涼ネタを一つ。皆さん巧いコメントしてらっしゃいますね。作曲ネタのエピソードで、あまり出来が良くないのは「拍子抜け」・・・失礼しました。でも凍りつくぐらいでちょうどよかったでしょ?。
戦慄(旋律)を覚えました!!
いろいろと疑問のある話ですが、一番分からないのは愛の旋律の楽譜がなんで犯人特定の決め手のひとつになったのか。良い解釈お持ちの方、教えてください。
デガルモ刑事はセイウチに本当に似ていて可愛いです。
コロンボがエレベーターで見つけた指揮棒に書かれた楽譜を見て、手紙と照らしあわせて「レベッカ&ガブ」と読み取り、持ち主を特定したことを屋上でのレベッカさんのキーボード演奏でドラマチックに演出して、クロフォード氏の言い逃れの余地を失くし、愛の旋律によって後悔に追い込んだということだと思います。手紙の楽譜が二段になっていたのは二人の愛のデュエットを表していたと思います。指揮棒の楽譜だけで持ち主を特定できるはずなのでレベッカさんの協力を仰いだのでしょう。
なおREBECCAの音名への変換はイタリア語式、ドイツ語式、英語式が混じっています。R→レ(ドレミのレ、ドイツ語式ではDになります)、B→シ(ドイツ語式ではBはシ♭、シはHを使います)GABRIELは音名に変換しきれないので愛称のGABE(ガブまたはゲイブ)を使っています。
ありがとうございます。愛の楽譜と指揮棒の楽譜は同じ、つまり指揮棒は被害者のもの。指揮棒はエレベーターにあり、屋上の隙間は狭くて指揮棒はエレベーターに落ちる事は不可能。よって被害者はエレベーターで運ばれた。そんなこんなでお前が犯人だあきらめろって事ですね。大変よく分かりました。
最後の楽譜の音名に名前が含まれているとは全然気づかなかったです!
ここ、ドラマの中でもう少し深堀りしてもらえるといいエピソードになりそうだったのに。
あと、ぼろんこさんが書かれている、4/4に納まっていないって書かれていて、もう一度最後の場面を見直したらホントでした笑
マクグーハン作品ということもあり、新シリーズの中ではまあまあ評価も高いようですが、残念ながら私はあまり楽しめませんでした。殺害シーンまでがダラダラと長いわりに、意味がよく分からない犯人宅へのドライブがあったり、最後の屋上での問い詰めもエラくあっさりで、もはやこのドラマが「刑事コロンボ」である意味すら見出せなくなりました。
話は逸れますが、レベッカがガブリエルに書いた手紙は綺麗な筆記体で書かれてましたね。最近はアメリカでも筆記体はメジャーじゃないとの理由で日本の英語授業でも習わないそうですが、この作品の2000年の頃はまだ筆記体が生きてたんだとしみじみ思いました。
本作は、監督マクグーハンに脚本マクグーハンとジェフリー・ケーヴァの共作、
前作「復讐を抱いて眠れ」では、犯人役兼監督兼脚本(ジェフリー・ハッチャーはマクグーハンのペンネームらしいので)。
刑事コロンボの犯人役としてのマクグーハンは、毎回演じ分けが素晴らしい出来ですし、二刀流ならぬ、三刀流、四刀流・・・それ以上?
本作はクラシック音楽と映画ファンの私にはお話しの結末が拍子抜けで残念なものの、非常に楽しめた回でした。「奪われた旋律」と初期の名作「構想の死角」と佐村河内事件を題材に、上手に混ぜてリメークしたら、とても面白い新作が生まれるのではないかと、ふと思いました。
私も犯人の音楽家を見てすぐにあの佐村河内氏を思い出しました。尊大な態度やふてぶてしい物言いなど、
潰された若き才能が哀れでなりません。
風采が立派な俗物の音楽製作者と腰巾着呼ばわりされる小柄でお人よしのゴーストライターの組み合わせから、佐村河内氏と新垣隆さんを連想した人がやっぱりいましたね。新垣隆さんが、刑事コロンボのこの作品を観ていて、自分も今に抹殺されるのではないかと恐怖を感じて、ゴーストライターを名乗り出たのではないかなんて考えました。
音楽がたくさん使われているのが楽しくて、「サイコ」の不協和音の音楽は「古畑任三郎」での犯人の小細工のシーンの音楽を思い出しました。「1812年」は細かい音符が正確でハリウッドのオーケストラが弾いているのかちょっと気になります。
指揮者が殺人をする回が旧コロンボにありましたが、指揮姿がサマになっていませんでした。クロフォード氏の指揮は「まだ結婚できない男」の阿部寛や「のだめカンタービレ」の玉木宏のレベルには十分に到達していたと思います。
殺害以前に指揮棒や手紙に音符が見えたので、重要なメッセージが込められていると注意してみましたが、愛のメッセージに過ぎなかったのでちょっと拍子抜けしましたが、最後の場面は俗物が才能あるカップルを引き裂いたんだぞ!という告発になりながら、明るく締めくくったのが良かったのかもしれません。
コロナ禍の「コロンボ」全作放映もいよいよ大詰めですね。
コロンボの運転するプジョーに先導されたらどんな酔いも醒めますわな(笑)しかし「コロンボ」の飲酒、喫煙シーンを観る度、本当に時代は隔世の感がありますねえ。
実はコロンボ警部、新シリーズのはじめの方は、
運転が荒くなり、スピードもかなり出しています。
本作の頃はかなり年をとって、のろくなったかな笑
コロンボの車が到着するシーンでいつもガツンと大きな音がするのが気になっています。爆発音みたいで到着寸前にまた事件かとハッとします。なんの音なのでしょう?オートマ車で無さそうなのでギアを変える際にどこか引っかかるんでしょうか?日本の車検ならまず通りませんね。
「バックファイア」じゃないか?と、いう人がいます。
バックファイアでBAM!となったときにマフラーや排気管が緩んでるとガツンとくるだろうということでした。
コメ記入からだいぶ経過しておりますので、失礼でしたでしょうか?
あしからず。
こんにちは
いつも「刑事コロンボ」鑑賞後の案内書として大切に拝読致しております。
ひとつ気づいたのですがガブリエル役の俳優さんはチャド・ウィレットさんではないでしょうか。
チャールズ・シオッフィさんとの表記がありますが、多分シドニー役の方とお名前が似ていますので気づきました。
確かに間違っておりました、修正いたしました。ありがとうございます。
このエピソード、前半はとても引き込まれたのですが、後半はちょっと首を捻るシーンが多かったです。
犯人が映画音楽の巨匠という設定やエレベーターを使った殺害方法などは新鮮でしたし、殺人に至るまでの経緯は、なかなか面白かったです。
コロンボがクロフォードに最初に疑いを持ったきっかけは、おそらく被害者の家の鍵だけ、見あたらなかったからではないでしょうか。バンガローに自由に出入り出来るのは、クロフォードだけですから。
その後の展開で、ちょっと不自然な点がいくつか引っ掛かりました。
いちばん違和感を覚えたのは、殺害後、タキシード姿の被害者をバンガローからホールの屋上まで、誰にも気がつかれずにクロフォード1人で運んでいたことです。何か大きな箱(例えば楽器ケースのような(笑))が無ければまず不可能だと思いました。
犯人を車で誘導して家に送る時に、わざとノロノロ運転をした挙げ句ガス欠したとお芝居したシーン。
コロンボの目的は何だったのでしょうか?特にこれといった収穫は無かったようですが…
犯人クロフォードが最後にあっさり認めてニコニコして連行されていくのも、どうも…殺人を犯してまで、守りたい地位だったんじゃなかったんですかね〜
ラストシーン、ピアノで奏でられた~ガブより最愛なるレベッカへ~とかいう旋律は何だったの?
『殺人者』の楽章のどこかで使われてた的なこと? ながら見で見たせいかよく分からなかった。dvd借りパクされたせいでもう一回見てたしかめることもできゃしない…
私はこの作品、嫌いではありません。最後の決め手の部分は、すこし寂しいけれど。音楽を扱った作品ということで、きれいな雰囲気をもった作品です。
なんでみんなそこまでリアリティにこだわるんだろう。リアリティを追究しすぎるとドラマにはならないよ。
そんなにリアリティがいいなら現実の犯罪を観ればいいさ。
この回の最大の疑問というか不満があります。
最後、クロフォードは観念し犯行が明らかになったワケです。
この時、目の前にいたレベッカは、恋人を殺されていながら、
なぜ怒りを爆発させないのでしょうか?。
眠けマナコの演技は抜群だったのに、怒る演技は不得意なのかな?。
穏やかな最後は悪くありませんが、とても違和感が残りました。
BS-TBSで視聴終了。貸衣装屋の店員さんがアントニオという名前。出て来ましたねえ『アマデウス』ネタ。私も「金曜」で観た時は気付きませんでした。
コロンボが指揮棒を振り回すと思い出すのは、吹奏楽部で顧問の先生に指揮棒の持ち手で叩かれたこと。体罰だーと叫ぶ気はありませんが(苦笑)
”BECCA/GABE”という名前の綴りと音名を掛けたメッセージはバッハ(J.S.BACH)がシのフラット・ラ・ド・シのナチュラルを続けた”B-A-C-H”と続く音形で変奏曲を作りR.シューマンの”ABEGG”さんの名前を使った変奏曲という具合に昔からある、にわかには展開出来ないアイディアと思います。当話のアイディアというか材料の根源にあったものでしょう。
脚本家が名案と思った材料であったとしても、当話の脚本は実際にはマクグーハンがかなり書き直し、コノリーとマクグーハン監督の議論で撮影中断になりコノリーが酒を飲んで酔っ払うといったトラブルがあったそうで、飲酒のせいか常時ゴキゲンに見える犯人のキャラクターが掘り下げられない、過去の才能や名声の片鱗もうかがえないといった残念要素の数々を生んでいるようです。
それで”This Old Man”で締め括られる結末でしょ?『Xファイル』の悪役チオフィ演じたリッター監督(吹き替えは小林勝彦さん…ダブルかつひこ笑)は最近の若いモンは…とグチっていたけれど劇中劇も随分トホホで古臭くB級な造りに見える。ゴーストライター話はスピルバーグ監督の「構想の死角」の焼き直しに見えるし、当話と同時期『ジェシカおばさんの事件簿』や『新 ペリー・メイスン』でも似たような話がありました。前者は1時間枠だし後者は主要人物を増やしアイディアをもっと詰め込んで2時間枠を支えており、両方踏まえ較べてみると当話の密度の薄さは気になるもの。エレベーターで屋上に機関銃とカメラを運んだって何時の時代の話か。これはもう「我ら老害!若いモンには負けん!」という、制作に名を連ねたピーター・フォークとマクグーハン父の自虐的メッセージじゃないかと思う程です。
吹き替え版は翻訳家だけでなく演出家も交替した事を反映したのか、石田太郎さんのコロンボは迷走?ブレブレ?カン高く上ずるかと思えば低く意地悪くレクター博士っぽくなる場面もある。まさか“クロフォードVSレクター”という意図では(トマス・ハリスかよ)
ただ石田さん。ラストの歌声は調子良く、もっと楽しく歌って聴かせて欲しくなる、良い場面でした。
クロフォード証言:ガブに最後に会ったのは、前日夕刻バンガローで。
当日初めて見たのは、道路に横たわる姿だという。
レベッカ証言:当日!、指揮棒のプレゼントを渡した。
ガブは指揮棒を持って、バンガローへ行った。
この指揮棒は、愛の旋律が書かれた、この世に唯一無二のものだった。
落下死が事故ではなく、睡眠薬を飲まされての他殺であることが明確に
なった以上、バンガローから屋上までの行間を埋めることのできる人物は、
明快な殺害動機を有するクロフォード以外にはいないことになる。
レベッカのガブへの愛の旋律が、犯行の真相を暴きだしクロフォードを
観念させた。
傷ついているレベッカに「では、いい夢を・・・」だって。
このコロンボ、バッカじゃないか!。
別の場面では、ガッツポーズなんかもしちゃってねえ。
まさに、老化と劣化と退化が同時進行だ。
デガルモ刑事:せいうちに似ている→ホントだ!!!
クロフォードは、ガブ本人不注意の事故による死亡を想定して仕組んでいた。
しかし、以下の状況から、事故死は否定された。
・腕の傷から睡眠薬が検出された→落下時は意識不明だった
・もし意識があれば、エレベータの音を気付くはず
・意識不明のままで転落したので、悲鳴をあげなかった
・2センチ大きい靴を履いていたのは、自分の意志で履いてない証拠
・指揮棒が地下へ落ちていたのは、事故を前提に犯人が握らせていたことが明白
・クロフォードがガブに最後に会ったのは、事故前日だと言う
・ガブは指揮棒を持って、当日クロフォードのバンガローへ行った事実がある
動機から見れば、
・カギを盗みオリジナルの楽譜盗む、睡眠薬で眠らせ殺害するということには、
共通の動機が明白。つまり、その楽曲で賞をとった人だ。
以上、繋ぎ合わせて総合すれば、クロフォード犯行の強力な状況証拠になる。
かなり強く説得力のある状況証拠と殺害動機によって観念した。
副題についてアプローチを。
”too many notes”は作曲家サリエリのモーツァルトに対する嫉妬を軸とした映画『アマデウス』に出て来る台詞です。映画の後半凡庸なるサリエリはモーツァルトに「死者のためのミサ曲」を書かせてから殺害し、モーツァルトを悼んで自分が書いた作品として発表しようと画策します。モーツァルトをゴーストライターとして使うという企みとも言えます。当話はこのような所から発想されたのではないでしょうか。
ついでに。『アマデウス』がテレビ朝日で放映された際翻訳したのが額田やえ子さん。コロンボに逮捕された日下武史さん、金内吉男さん、羽佐間道夫さんなど声の出演者達の名演と相俟って非常に格調の高い吹き替えになっていました。
蛇足ですが金内さん、新コロンボの石田さん、当話のWOWOW版吹き替えで犯人役だった堀勝之祐さんに共通する役柄があります。『羊たちの沈黙』のレクター博士です。日下武史さんのレクター博士も聴いたことあるなあ。
なんで観念したのか、全然分からない。
無駄が多く、必要な過程が少なく、落とし方も観念の仕方もダメ。
終わりは、やや微笑ましいのが救い。
タップおばさん>「終盤になって一気に失速」ですね確かに。将棋番組でもたまに、まだまだ勝負はこれからって時に投了したりします。そんな感じ。
るてなんとさん>「ガブリエルが転落死するその瞬間に居合わせたご婦人を演じた方こそ、マクグーハン氏の次女、アン・マクグーハン」ですか!それは知らんかった!
WATSON,Tさん、お返事が遅くなりました。4年越しです(笑)「新シリーズのコロンボは半ば超人と化してます」には爆笑しました。
終盤になって一気に失速した、という印象。
結局、殺人の証拠は解明されていない。
なのに何故犯人は自供したのか?
一言か二言か、犯人が諦めるに至ったセリフを描くぐらいすべきです。
余りにも消化不良。
この作品は、前作「復讐を抱いて眠れ」同様、マクグーハン氏の娘さんが出演されているエピソードでもあります。
ガブリエルが転落死するその瞬間に居合わせたご婦人を演じた方こそ、マクグーハン氏の次女、アン・マクグーハンだったのです。
「復讐~」では長女キャサリンが出演されていましたが、まさか次女の方も出演されていたとは知りませんでした。
こちらを拝読してからもう1度見直しました。
>容疑者特定の瞬間が見えない
クロフォードがガブリエルの亡くなった状況を尋ねなかったからだと思います。屋上から落ちたことは分かっていたとしても事故、自殺、殺人の可能性があるのに彼は何もコロンボに尋ねていません。つまり彼はガブリエルが亡くなった経緯を知ってる→犯人だということになります。
ただ容疑者を特定するには弱い要素ですよね。新シリーズのコロンボは半ば超人と化してます。そこが本エピソードに限らず旧シリーズより緊張感に欠ける原因の一つでしょう。
ういぐるさん、コメントありがとうございます。
「虚飾のオープニング・ナイト」はまだ見ていません~。明日の夜、ゆっくりみます。「奪われた旋律」で、いきなり「殺人課」ですよね。そですね~、新シリーズでは特に、矛盾が多いです。この場合もそうですよね。屋上から転落死したのに、数々の大物を逮捕したロス警察のベテラン刑事が初動捜査に呼ばれるとは、強引ですよね。「だまされたコロンボ」の時には、ロンドン警視庁の友人からの依頼ということで、失踪事件の捜査に動いています。「復習を抱いて眠れ」も不思議です。
シリーズ存続のため、でしょうかね。仕方ないことだと思い、追求してません(笑)
なにせ69話も見られたんですからね。
いまBS2での最終話「虚飾のオープニング・ナイト」を見終わって、他の皆さんはどう見ておられるのかなと検索していて、こちらに来ました。楽しいHPですね、これからじっくり読ませていただきます。さてこの「奪われた旋律」ですが、This Old Man なんてよくご存知ですね、ありがとうございました。ただこの話、当初は転落事故のように始まったんですから、はなからいきなり「殺人課」が呼ばれて来ているのはおかしいのでは。古い話なら「なぜ殺人課が?」と犯人が狼狽する場面がよくありましたよね。その辺の設定が、この当たりになるともうきちんと詰められていないんでしょうか?