エドガー・ドガ

ドガについて勉強してみた

エドガー・ドガエドガー・ドガ(Edgar Degas:1834-1917)はフランスの印象派の画家、彫刻家。6話「二枚のドガの絵」の題材は踊り子のパステル画でドガの得意分野とされます。ドガに限らず古今の芸術家たちは、結構屈折した人間性を持っていました。

俺たちのドガ

主に絵画などの評論家である山田五郎さんが語るドガの人間像は、 YouTubeの「オトナの教養講座」でも知ることができます。ドガは気難しい人だったということです。屈折した女性感や後年の失明など、人生は決して幸福なものではなかったようです。五郎さんはそのようなドガを「俺たちのドガ」と呼んでいて、とても共感できます。奇しくも刑事コロンボにこのドガを扱った作品があることで、私ぼろんこにとっても、俺のドガ!となったわけです。

踊り子を描いたドガ

ドガは踊り子(バレエ)を多く描いたことでも知られます。6話「二枚のドガの絵」は踊り子をモチーフにしたドガの二枚のパステル画が盗まれたというお話でした。犯人のキングストン氏も語る、パステル画ももちろん良いのですが、ドガの油絵は素晴らしいものです。また絵画に限らず彫刻作品も多く、これもモチーフは主に少女(踊り子)です。

  
*これは書きかけの記事です。
投稿:2024年2月11日

“エドガー・ドガ” への14件の返信

  1. 仁科雅之様
    >6話「二枚のドガの絵」に出てくる「2枚のドガの絵」は、しょせんドラマ用の贋作で、ドガの作風にしては躍動感に乏しく魅力に欠けるなと、ずっと感じてきましたが、よくよく観ると、ドガや踊り子の孤独感が心に凍みてきて、仮に贋作だとしても、ドガの本音が垣間見える中々の名作かもしれないなと、こちらの心境が変化してきました。
     芸術とは、あちらとこちらの魂のキャッチボールなので、こちらが変われば、自分の作品に対する評価も変わるところが面白いです。

    そうなんですよね。
    以前にもこの点について仁科様とやり取りさせていただきましたが、考えてみたら、本物のドガの絵を使用するわけもなく、どなたかが描いたこの絵だからこそ物語もより面白く観られるのかなと今は私も思っています。
    これを描いた画家さんに拍手です。

    1. YUKIゆき(アイス)様
       考え過ぎかもしれませんが、あの「2枚のドガの絵」の暗い孤独感は、共犯者で被害者の美術学校生、トレーシー・オコーナーの哀しさにも繋がるかもしれないなと思ったりもしています。

      1. 仁科雅之様
        >あの「2枚のドガの絵」の暗い孤独感は、共犯者で被害者の美術学校生、トレーシー・オコーナーの哀しさにも繋がるかもしれないなと思ったりもしています。
        それ、思いました!
        (私事です恐縮が、甥っ子が絵を描いているのですが世間との遮断がすごいというんですね。
        だからというわけではないが自分は音楽も始めた、とのことで、彼が持っていないアカデミックな基礎とピアノを私が担当して音楽を一緒にやり始めたのですが、確かに音楽と絵画では「孤独」の在り方はずいぶん違うのでしょか?)

        1. >音楽と絵画では「孤独」の在り方はずいぶん違うのでしょか?
           YUKIゆき(アイス) 様の問いかけから、絵画、音楽、(+文学)、の中で、最も抽象的で孤独な芸術はどれかを、考察してみました。
           結果、「絵画、音楽、文学」の中で最も抽象的で孤独な芸術といえば、やはり音楽だよなあと思うに至りました。
          <抽象性>
           音楽は言語や視覚的なイメージに頼らず、音そのものを素材としているため、非常に抽象的です。具体的な形や物語が存在しないため、聴き手の解釈に大きく依存します。この点で、音楽は他の芸術形式に比べてより純粋な抽象性を持つといえますよね。
          <孤独感>
           音楽の制作過程も非常に孤独なものです。作曲家や演奏者が一人で音の世界に没入し、感情や思想を音で表現する過程は、他者との対話や共有が少なく、内的な体験に深く根ざしています。
          <比較>
           絵画も抽象的になり得ますが、視覚的な要素や形があるため、ある程度具体的なものを参照できます。
           文学は言葉を使うため、感情や思想を直接的に伝えることができますが、その分具体性が高く、他者とのコミュニケーションに向いています(文学同様、『刑事コロンボ』もそうですかね・・・笑)。
           そのため、音楽は、その抽象性と内向的な制作過程から、最も孤独で抽象的な芸術と考えられます。

        2.  ところで、今、音楽と美術の両方で名声を博した総合芸術家、ギル・メレ(Gil Mellé)に、とても興味を持っています。コンポーザー、アレンジャーで、バリトン・サックスやテナー・サックス奏者でもあり、ジャズ・アルバムのジャケット・デザインなども数多く手がけています。
           『刑事コロンボ』では、ぼろんこ様の別記事でも紹介されている通り、4話「指輪の爪あと」、5話「ホリスター将軍のコレクション」、8話「死の方程式」他で、音楽を担当していて、とても印象深いです。
           もともとは、自作の絵画や彫刻で評判を取った人です。
           先日、 ギル・メレ(bs) エディ・バート(tb) ジョー・シンデレラ(g) オスカー・ペティフォード(b) エド・シグペン(ds)というメンバーによる、Blue Note1517番の、「パターンズ・イン・ジャズ」というアルバムのCDを入手し、何度も聴いて楽しんでいるところです。これについては、別な機会に感想をコメントしたいです。

        3.  脱線ついでに、ギル・メレについての補足です。彼は、バリトン、テナー、アルト、ソプラノのサックス奏者、画家、彫刻家、コンピューターやシンセサイザーの製作者、操縦士、自動車整備士等、多様な多芸多才ぶりで知られる総合芸術家だったらしく、作曲家としては交響曲もいくつか書いているそうです(機会があれば、ぜひとも彼が書いた交響曲を聴いてみたいと思っています)。
           ギル・メレのような、多才で幅広い分野で活躍する芸術家は、その多様な才能ゆえに孤独を感じることがあったかもしれません。彼のような総合芸術家は、自身のクリエイティブなビジョンを追求するあまり、他者と共有できる共通の経験や理解が少ないと感じることがあるかもしれないです。
           また、彼のように音楽、美術、そして映画音楽といった異なるジャンルで活動することは、それぞれのコミュニティや業界において、完全に理解されることが難しい状況を生むことも考えられます。音楽家としての彼と画家としての彼が、異なる評価を受けることで、自己のアイデンティティに対する複雑な感情を抱くことがあったかもしれません。
           さらに、彼の電子音楽のように前衛的で革新的なアプローチをとる芸術家は、当時の主流の評価基準や一般の聴衆から理解されにくいこともあります。このような状況で、自分の創作活動に対する支持や共感を得ることが難しく、孤独感を抱いたことも考えられます。
           とはいえ、彼の多才さや独自のビジョンは、同時に彼の創作活動を支える原動力でもあったはずです。孤独感があったとしても、それを乗り越え、自己の芸術を追求し続けたメレは、その孤独を創造性に転化する能力を持っていたともいえ、いくつかの『刑事コロンボ』での音楽の、一抹の寂しさを含んだ味わい深さも、そうした賜物だったのかもしれませんね。
           一口に「孤独」といっても、ドガの孤独とメレの孤独は意味がまったく異なり、「孤独」の様相は、当然ながら、人それぞれなのだと思いました。

          1. 仁科様のコメントをとても興味深く読みました!。
            >孤独感があったとしても、それを乗り越え、自己の芸術を追求し続けたメレは、その孤独を創造性に転化する能力を持っていたともいえ、いくつかの『刑事コロンボ』での音楽の、一抹の寂しさを含んだ味わい深さも、そうした賜物だったのかもしれませんね。
            転化、ですね。これが本当に孤独ながら楽しい作業なのだと私は思いますがいかがでしょうか。コロンボもまあまあ孤独ですね。
            メレのCDも探してみます。
            音楽が一番孤独、ですか。甥っ子の歌にピアノを付ける際、甥っ子が言うことが抽象的だったんですね。
            音楽は絵と違って具体的に言わんと伝わらんのじゃ、と言いましたら理解していました。最も私は絵は描けませんし仁科様のように詳しくないので違いはあまりわかりませんが…

            1. >転化、ですね。これが本当に孤独ながら楽しい作業なのだと私は思いますがいかがでしょうか。
               私の理解を完全に超えますが、パブロ・ピカソによると、
              「大きな孤独がなければ、真剣な仕事はできない」
              Without great solitude, no serious work is possible.
              そうです。
              >コロンボもまあまあ孤独ですね。
               コロンボも言ったそうです。
              「それにしても世の中ってのは不思議ですねえ。あたしはどこへ行っても秀才にばかり出会ってね。学校にも頭のいい子は大勢いたし、軍隊に初めて入った時にも、おっそろしく頭のいいのがいましたよ。ああいうのが大勢いちゃ、刑事になるのも容易じゃない、と思って、孤独に苦しんだものです。で、あたし考えました。連中よりせっせと働いて、孤独を恐れずもっと時間をかけて本を読んで、注意深くやりゃ、ものになるんじゃないかってね。なりましたよ。あたしは、この仕事が心底好きなんです」

              1. 仁科雅之様
                >「大きな孤独がなければ、真剣な仕事はできない」
                Without great solitude, no serious work is possible.
                そういえば、最近リヒャルトシュトラウスのモルゲンのピアノソロを弾きたいのですが、楽譜見つからないので勝手に孤独を感じております。彼は、「芸術家はほぼ捨てての仲間から狂人扱いされて当然」とかなんとか言ったとか言わなかったとか…
                あー、コロンボ言ってましたね!
                ところでアストリッドとラファエルは放送決まってないのでしょうか?

                1.  Morgen!
                   とても美しい歌曲ですね!
                   YUKIゆき(アイス)様、さすがの審美眼です!
                   >「芸術家はほぼすべての仲間から狂人扱いされて当然」
                   R.シュトラウスがそういう言葉を発したのは、作曲家のタイプ的には少し意外です。
                   Only the audience should get warm.
                  「熱くなるのは聴衆だけでいい」と冷静に言い放ったことで有名な人なので・・・。
                   前のコメントでのコロンボの台詞は、「孤独」を強調するために、オリジナルから少しだけ改変しています。
                   『アストリッドとラファエル5』は本国フランスでも、まだ放送していないようですね。待ち遠しいですね。英語版Wikipediaによると、マット・ベイカーが主任脚本家で、ローラ・フレイザーとエラ・メイジー・パーヴィスが 主演の、イギリス・ベルギー合作版『アストリッドとラファエル』リメイクTVドラマ『ペイシェンス』が計画されているらしく、すでにヨークやベルギーで撮影が進んでいるとのこと(このシリーズはイギリスではチャンネル4で放送予定)。こちらもぜひ観たいものです。

  2.  周知のように、ドガの描くバレリーナには、相撲取りを題材にした『北斎漫画』に、構図などで驚くほどそっくりな作品が多くあり、特に、数年前、国立西洋美術館での企画『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』に行ってからというもの、ドガの描いた踊り子の絵を観るたびに、相撲の力士の姿が即座に脳裏をよぎって、困ってしまいます。
     ドガ『踊り子たち、ピンクと緑』と、『北斎漫画』十一編の中の力士などは、顔や身体の向きや、腰元の手のあて方、脚の開き具合等々、びっくりするほど似ている典型例として有名です。
     そういう意味では、小池コロンボの江戸っ子独特な味のある語り口だって、ドビュッシーやラヴェルを代表とする印象主義的な音楽とシンクロ可能なのかも・・・。

    1.  ここで、「二枚のドガの絵」の犯人、美術評論家・デイル・キングストンによる、架空のテレビ解説を、大真面目に想像してみました。
      ・・・・・・ドガは19世紀後半のヨーロッパで活躍した画家であり、彼の時代には日本の浮世絵が広く紹介され、「ジャポニスム」と呼ばれる日本文化の影響が強く見られました。その日本の浮世絵や、『北斎漫画』などは、ヨーロッパの芸術家たちに大きな影響を与え、その中にはドガも含まれていたと考えられています。
       ドガはバレリーナや踊り子の動きに強い関心を持ち、その動きを詳細に描写することを得意としていました。一方、北斎の『北斎漫画』には相撲取りの動きやポーズが詳細に描かれており、人体の動きやポーズに対する理解と表現力を高めるために、ドガは北斎の作品を研究したのでしょう。
       ドガと北斎の作品には、動きの一瞬を捉える美学や、人体のダイナミズムを強調する構図が共通して見られます。両者は、動きの中の美しさや緊張感を表現する点で共鳴していたといえます。
       総じて言えば、ドガのバレリーナと北斎の相撲取りの構図の類似は、19世紀後半のヨーロッパと日本の文化交流の一環として、ドガが北斎の作品に触れ、その影響を受けていたことを示すものです。これは、異なる文化が互いに影響し合い、芸術の新しい可能性を広げる一例として捉えることができるでしょう。・・・・・・

    2.  ところで、前回コメントを投稿しながら、エドガー・ドガ(1834年7月19日 – 1917年9月27日)と、ピーター・フォーク(1927年9月16日 – 2011年6月23日)の共通点として、両者共に83歳で没していることを発見しました。
       また、ドガは普仏戦争に国民衛兵として従軍した際に寒さで目をやられたために俗に『まぶしがり症』といわれる網膜の病気を患っていたそうで、屋外の絵が少ない要因といわれていますし、ピーター・フォークも3歳のとき右眼に網膜芽腫が発見され、眼球の摘出手術を行い、それ以来、生涯右の眼孔には義眼をはめて過ごしたそうで、それが彼の芸風に生かされていて、両者共に目の病気と縁があったところも似ています。
       私も、最近、飛蚊症が辛くなってきたためレーザー治療を受け、少しの間、片目だけで過ごし、視力にハンディがある方の感じ方に、より共感できた気がしていますし、これからますます年齢を重ねるに従い、こうしたことを考える機会は増えそうです。
       6話「二枚のドガの絵」に出てくる「2枚のドガの絵」は、しょせんドラマ用の贋作で、ドガの作風にしては躍動感に乏しく魅力に欠けるなと、ずっと感じてきましたが、よくよく観ると、ドガや踊り子の孤独感が心に凍みてきて、仮に贋作だとしても、ドガの本音が垣間見える中々の名作かもしれないなと、こちらの心境が変化してきました。
       芸術とは、あちらとこちらの魂のキャッチボールなので、こちらが変われば、自分の作品に対する評価も変わるところが面白いです。

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